イヴの初恋

 それはまさに電光石火。その人を見たのは偶然。将来の義兄に姉と一緒に紹介されたときだった。
彼は私を見てもお世辞も言わない。姉を見ても私と比べる事もしなかった。落胆の表情も浮かべない。それだけで好感を持てた。姉を未来の王妃として接した事も、私にはおざなりな態度も、全てが及第点であった。
そんな彼の態度に恋をしてしまった。どうすればいいのか、この気持ちをどうすればいいのか、わからない。そう悩む間にも、頭が空っぽな貴族の男たちは寄ってくる。正直鬱陶しい。
しかしここは大切な姉の婚約指揮。私がぶち壊す事は、何があっても許されない。むしろ私が許さない。
「イヴ嬢、今日も一段とお美しいですね」
その後に続いた言葉に、私は冷ややかな微笑で答えた。
「お姉上もかすんで見えますよ」
「あら、ありがとうございます」
冷えた視線にも気付かないまま、私の腰に手を当てようとする。すかさず持っていた扇子で、その不埒な手を叩く。まだ注意喚起。そこまで痛くは叩かない。しかしこの男も解っていない。
今度はその手が肩に回る。肩に手を乗せられる前に扇子で押しとどめ、容赦なく払い落とす。それから少し後ろに立っていたその男を、自分の頭を微かに動かし見上げる。視線が合えば男はぎくり、と身体を固まらせた。冷ややかな視線と共に、少しの怒りを滲ませる。
ややぽってりとした唇を僅かに突き出し、見つめる。それだけで効果は見られた。愛想笑いを浮かべながら、足早に私の許を去っていった。それを眺めながら満足げに笑えば、背後から押し殺した笑いが聞こえた。
誰だ、と振り返れば、皇太子に紹介された彼が居た。それに眼を見張り、次いで居心地が悪くなった。一部始終を見ていたのであろう彼は、くつくつと笑いながらこちらに近づく。
「スイ嬢に貴女の虫除けになって欲しいと言われたので来てみたんだが」
それは、姉には感謝するが、余計なお世話と言うもの。姉と違い、私はこんな夜会にしょっちゅう出ていたのだ。頭の中身が可哀相な男のあしらい方など、とっくに身についている。
「必要なかったようだな」
それには同意するが、せっかく姉が心配してくれたのだ。無碍になどしない。
「必要は無いですが、居て下さったら楽が出来ます」
言外に傍にいろ、と言ってみる。それにどういう反応を返すのか、楽しみでもあった。彼は少しだけ、片方の口の端を上げる。その笑い方が、狡賢い子供のようでなんだか彼には似合わない感じだった。
しかし作っていない笑い方に惹かれた。
「本当に似ていないな」
その言葉に落胆したのは、仕方ない事だと思う。周りはそう言いながら、私と姉を比較してきたのだ。結局は同じなのか、と溜め息を隠して見上げる。そこにはこちらを見定めるような表情があった。
それを見た瞬間、思い違いをしていたのはこちらの方だと気づいた。そして気づいた時に、彼に溜め息を付かれた。羞恥に顔が赤くなるなど初めての経験。なんて人だ、と再確認してしまう。
「まぁ、周りにそういわれてきたのなら、相応の反応だな」
「いえ、私が失礼でした」
素直に謝れば眼を見張られる。言いたい事は手に取るように判った。
「我が侭な末娘は謝らないとでも?」
微笑みながら厭味を言ってやれば、困った顔をしてしまう。どうしよう、こんな筈ではなかったのに。
「いや、まぁ、そうだな。今のは私が悪い」
「いえ、私も言い方が悪かったです」
ふふ、と微笑めば、彼はまぶしそうに眼を細める。表情は平静でも、心の中では舞い上がっていた私は、それから先の記憶が曖昧だった。
ただ思ったのは、こんなに稀有な人は後にも先にもこの人だけ、と言う事。追いかけたのは私。彼はのらりくらりとかわす。恋愛対象にも視られていないのは、理解していた。
きっと彼には淑やかで、彼を支える、奥ゆかしい才媛が似合っているから。そして自分を省みてみれば、溜め息がとめどなく溢れてきた。
無理。絶対に無理。有り得ない。こんな我が侭で、男を振り回して、遊びまわっている私では、無理。でも諦められないのも確か。付きまとって、振り向いてもらって、同じ目線に立って、それでも向こうが拒絶するなら、その時に諦める。
「またこの部屋に篭ってお仕事ですか?」
体調を崩したらどうするのだ、と小言を言いながら彼の仕事場にずかずかと入っていく。実は凄く緊張しながらの台詞。嫌な顔をされたらどうしよう、なんて考えながら口にしていた。
しかし彼は顔を上げて、またかと顔を呆れたようにしただけ。その表情にも傷つくが、追い出されないだけまし。
「普通の貴族の姫君は昼まで起きないんじゃないのか?」
「我が家をそこらの普通の貴族と同じにしないでください」
「まぁ、あのスイ嬢を考えれば、特殊だな」
くつくつと笑う彼に見蕩れる。いつから私はこんなに乙女な思考になってしまったのか。私の結婚相手は伯爵家を牛耳りたいなどと馬鹿な事を考えない、我が家にとって、可もなく不可もなく、の相手を考えていたのに。それさえも思考の遠い彼方。
「こんな所に来ていないで、恋愛の駆け引きでも楽しんではどうだ?」
それはきつい一言。怒りと悲しみと苛立ちと、傷ついた心を持て余しながら曖昧に笑う。きっと上手く笑えていない。処世術として学んだものも、彼の前では意味をなさない。
「私は、貴方の傍に、居たいのです」
それは告白にも似た、それに最も近い言葉。しかしその言葉に対しての彼は、余りにも酷かった。
「他を当たれ」
冷たく、傲慢な一言。それに顔は歪む。あぁ、酷い顔をしているのだろう。彼の怪訝な表情でわかった。それでもどうしようもない。
「………貴方が好きです」
「寝言は寝て言え」
「寝言ではありません。私は本気です」
「余計悪い。私はそんな対象に貴女を見ていない」
「見てください」
 懇願する声音に彼は気付いたのだろうか。彼の持つペンの動きが止まった。それに私は固まる。踏み込みすぎた、そう認識した途端、彼は暗い表情に怒りの感情を込めた瞳で私を睨んだ。
「いい加減にしろ。私に纏わり付くな、と言わなければ解らないのか?」
 それは彼の本音。その言葉に、私は諦めた。諦めざるをえなかった、と言える。小さく謝罪の言葉を告げるのが精一杯で、彼の顔など見られなかった。

 家に帰り着けば、一番に出迎えたのは姉。私の顔を見るなり、酷くうろたえていた。
「どうしたの、イヴ。酷い顔」
「お姉さまぁ〜」
 堪えていた物が姉の心配そうな表情で零れ落ちた。鼻を鳴らしながら姉に抱きつく。その異様な様子に姉は何かを察したみたいだった。
「兄様達に頼んで息の根を止めてもらう」
 くるりと踵を返す姉に涙を流しながら引き止める。慌てた私の様子に姉は可愛らしく首を傾げる。可愛い、と心内で叫びながらも姉を押し止める。有限実行率は我が家で二番目。このままで行けば彼の命は消えてしまうかもしれない。それは困る。
「イヴに婚約の申し込みが沢山来ていてね」
「……姉さま?」
「これを機に婚約しちゃおう」
「姉さま!?」
「うん。それが良い。そうしよう」
 父様、と呼び掛けながらその場を後にした。そんな、と声にならない叫びが出るが、姉には届かない。なんだかお父様に似てきた、とも思わないでもないがうきうきと楽しそうな姉は見ていて嬉しい。ずっと彼のところに出て行っていたから、二、三日は大人しくしていよう。

 イヴが彼の執務室を訪れなくなって三日目。毎日顔を出していたにも関わらず、ちっとも姿を見なくなったのに苛立ちが募ったのはイヴではなく彼のほう。
「グレイ、ウザイよ」
「……あぁ?」
「冷気駄々漏れ。皆近づきたくないって俺に訴えてきてるんだけど」
「知るか!」
「イラつくのは良いけど、その状態って自業自得だよね」
「何が言いたい」
「スイから聞いたけど、イヴ嬢に酷い事言ったんだって?」
 スイが良い笑顔でグレイに縁談流してやる、と言い切っていた。勿論イヴにも良い縁談を山ほど用意する、と言っていた。その先鋒としてフロウが取り出したのは数枚の書類。
「スイからの嫌がらせ」
「嫌がらせだと?」
 見てみ、と言われ書類を読めば、どこぞの公爵令嬢、侯爵未亡人、男爵令嬢などの簡単な紹介文。ぎしりと固まるグレイを見てフロウは笑い転げた。
スイは凄い。顔を合わせ、話をしたのもつい最近の人間の弱点を正確に突いて来た。グレイは極度の女嫌い。話をするのも嫌。
そこでグレイはあることに気付いた。イヴは毎日自分の部屋に押しかけてきていたが、押し付けがましくなく、気付けばそこに居る。そして部屋の片付けをそれとなくしていたり、疲れたと思っていたら、そっと茶菓子を用意していたり。気付けば居心地の良い場所にしていた。
「イヴ嬢は今頃お見合い中かな」
「フロウ、これを今日中に片付けろ」
 そう言ってグレイは書類の山をフロウに投げつけ、急いで出て行った。
「最初から素直になってれば良かったのにな」
 苦笑しながらフロウは書類を一枚手に取った。

「イヴ嬢はご在宅か?」
「……いらせられますが、何か?」
 にこにこと対応するのは老執事。この狸が、と内心では毒づく。良いからイヴに会わせろ、と叫ぼうとしたとき、中庭からひょっこりイヴが顔を出した。
「あら?グレイ様、どうなさったのですか?」
「イヴ!」
 駆け寄る彼に首を傾げる。何故彼が我が家に現れたのか、理由が思い当たらない。そう考えていたら、彼が近寄り、私の目の前で跪いた。え、と後ずさろうとした私のドレスの裾を彼が掴む。
「グレイ様」
 慌てて座ろうとすれば鋭い視線に押し止められた。困惑していれば、彼の不穏な気配を察した執事が近寄る。
「イヴ、私と結婚していただきたい」
 その言葉に私は固まった。何が起きたの。え、と眼を白黒させればその間に執事に彼は追い出された。

 彼の言葉を信用したのはもっと後。姉と義兄の結婚式を終わらせた後。彼の言葉に頷いた。