光の
天蓋

 天へと翳した己の手が光に包まれるのを見つめる。その光と共に手の輪郭が光の粒子となって天へと昇る。それを恐怖も無く見上げていた。心は凪ぎ、死を当然のように受け入れていた。目を閉じれば視界一杯に広がる光。
そのまま意識も全て手放した筈だった。しかしその溢れんばかりの光に小さな黒い染みが現れる。それを不審に思ったクロロは目を開けた。視界一杯に広がっていた光はどこにも見当たらず、代わりに真っ黒な世界が広がっていた。
左右を見ても黒一色。上を仰いでも暗闇。なんだ、と思った。これがいわゆる地獄なのか、とぼんやりとした思考で考える。それが一番しっくり来る理由。
「そんな訳無いだろ」
 お前は馬鹿か、と言われクロロは気分を害しながらもそちらを見やった。そこには暗黒をその身に宿したような男が立っていた。その禍々しい気配にクロロは自覚せずに一歩後ろに下がっていた。それを見ていた男は口許に嘲笑を浮かべる。言葉は無くとも伝わってきた。その程度か、と。
「あんた、ナニ」
「へぇ、誰、て聞かないのか」
「人間の気配じゃないもの纏ってたら普通そう聞く」
 その言葉は男の及第点だったようで、纏う気配が少しだけ和らぐ。興味深そうにクロロを眺めた。その視線に居心地の悪いクロロは男を睨む。それを男は笑みで答える。先ほどの嘲笑ではない、少しあくどい笑み。それが男に良く似合っているので、クロロはそれが素の笑みなのだと見当をつける。
「俺の名はギルトだ」
 そんなものは知りたくも無い。クロロの不愉快気な顔にギルトは笑う。
「これから付き合いが有る人間の名は知っておいて損は無いだろ」
「付き合いなんてするつもりは無い」
「何でだよ。この世に俺だけだぜ?」
「………何が」
 その言葉は聞いてはいけない気がした。しかし聞かなければ、この男との縁は切ることが出来ないのも確か。
「神の力を振るう事の出来る人間だよ」
「………は?」
 一番考えていなかった答えにクロロは聞き返す。神を冠するほどの愚かな男には見えない。しかしギルトは笑みを深くする。音も無く近寄り、笑みのまま口を開いた。
「神に愛された、不幸な人間」
 謳うようにそれはギルトの口から紡がれた。
「その身に宿る力は、人のモノに有らず。膨大な魔力を御する者は神の愛し子」
 更に近寄り、ギルトはクロロの瞳を覗き込んだ。
「神の子の証、その身に現れたるは、二色の瞳」
 その言葉にクロロの息は凍りついた。二色の瞳、それはクロロの身に覚えが有りすぎた。クロロの左目は緑、常に右目には色眼鏡をしていた。その理由は、右目は蒼だったから。幼いころ気味悪がられた為に、近しい人以外の場では色眼鏡をして誤魔化していた。
 そしてそれは目の前の男にも言えること。ギルトの左目は鮮やかな紫、左目は深い緑だった。禍々しいほどの魔力は、人の身には過ぎた力。ギルトの言うとおり、クロロとギルトは同類だった。
「まあ、俺もお前の神の力を見るまでは半信半疑だったんだけどな」
 あっさりと身を引き、ギルトは笑う。その顔に、その纏う雰囲気に、クロロは顔を顰めた。こいつはアキと似ている、と。笑いながら相手を自分の意のままにしようとする。その為には労を惜しまない。脅しても、懐柔しても、方法は選ばずに篭絡する。
「再生の神の力は凄まじいな」
「………再生?」
「そ。お前を庇護する神は再生の神」
「ふうん」
「興味なさ気だけど、神だって万能じゃないんだぞ。」
 つまりは、再生の神の力を振るうことが出来たから、あの魔術は使えたと、言いたいのだろう。
「でなけりゃお前死んでたぞ」
「……え?」
 確かに自分は死んだはずだ。それに首を傾げる。こんな何も無い空間。死んでいるとしか思えない。それにギルトは気づいて周囲を見渡す。そこはあいも変わらず真っ黒な空間。
「これは俺が作り出したんだよ」
「なんのために」
「死を願ったお前をこっち側に留めて置く為だよ」
「そんな事は頼んでない」
「解ってるよ。でも俺の望みの為にお前は生きてもらわないと困るんだよ」
 ギルトの自己中心的な発言に眩暈を感じながら、クロロは彼の望みを聞きだす。彼はあっけらかんとその望みを口にした。
「簡単だ。神からの干渉を受けない世界を作るんだ」
「は?」 
それは聞き間違いかと思わせる言葉。それにギルトは凶悪な笑みを浮かべた。詰めより、クロロを覗き込む。
「俺は世界の覇王になる。それにはお前の力が必要なんだよ」
 ギルトのあまりにも予想し得なかった言葉にクロロの顔は強張り、声さえも出せない。その様子にギルトは、今回は顔合わせだしな、と理解出来ない言葉を吐き出す。
「次に会う時には名前を教えろよ」
誰が、と言う前にギルトの手が頬に伸びる。それを避ける間もなく、顔に影が落ちる。見上げればギルトの顔が思いの他近くにあった。
なに、と口を開く事も出来ず、ギルトは顔を下げてきた。手を添えた側と反対の頬に湿った温かいものが触れる。
 それが何、と理解する前にそれは離れる。驚き、凝固するクロロにギルトは笑いかける。綺麗に弧を描く唇、険の取れた眼は柔らかく微笑む。
 そのギルトの笑顔に何故かクロロの脳裏を掠めたのはウラルの去り際の笑顔。見とれるクロロにギルトは当然と言わんばかりの顔付きで、頬を撫でた。
「お前が帰りたいと願った所に送ってやるよ」
そう言った途端、クロロの視界から真っ黒の空間は遠ざかった。ひらひらと手を振るギルトに文句はとめどなく出てきた。
しかしそれを口に乗せる前に視界は光りに塗り潰された。それと同時に目前に現れた人物にクロロはぽかんと口を開けてしまった。
「クロロ!?」
目の前には何故かウラル。その綺麗な顔を驚愕に彩るのは面白いとぼんやりと思った。しかし慌てて駆け寄るウラルに首を傾げる。ウラルの顔が斜めに見え出してあれ、と気付いた。
 足に力が入らない。手も挙げることはおろか、指一本動かない。ぐにゃり、と傾いだ身体を支えたのはウラル。
 驚愕から焦燥に切り替わったその顔を良く見ることは叶わなかった。
 視界が暗闇に閉ざされながらクロロはウラルの声を聞いていた。
「クロロ!クロロ!?お前、三ヶ月もどうしてたんだ!?」
 三ヶ月、と脳裏に刻まれる。そんなに時間が経ったのか、と。まだ叫んでいるウラルを無視してクロロは思考さえも暗闇に沈んだ。
 残されたウラルはクロロが返事しないことに焦る。
「クロロ!?」
 それに答える声は無く、青くなったウラルはクロロの顔を覗き込む。そこには青い顔をして浅く呼吸を繰り返すクロロ。それにウラルは最悪を考える。
 屋敷の前で大声を上げる主に驚き、家令が飛び出して来たことは救いだった。
「扉をそのまま開けておいてくれ。それと医師を呼べ」
 言いながらウラルはクロロの身体を抱える。そこに違和感が在ったが、ウラルは首を傾げて無視をした。
 いきなりクロロが現れたのには驚いたが、クロロは非常識な事が常識のように出来ている存在。今更驚いても仕方ない。
 今にも消えそうな命の灯を絶やさない為に、ウラルは動いた。
 ウラルの家の侍医が来てからはウラルはクロロを運んだ部屋の前でうろうろとしていた。侍女や家令には苦笑されていたが、それどころではない。足を止め、考え込みながらちらりと部屋の扉を見つめる。それからまた歩き始める。部屋からそれほど離れない内に引き返し、また歩く。それをどれだけ続けたか解らない時、部屋の扉は開いた。
 ぱっと顔を上げて扉に近寄る。そこには難しい顔をした侍医。
「クロロはどうなんだ!?」
「それが、彼女は魔術師であらせられますか?」
「ああ。魔術師だ。しかもとてつもない魔力を持っている」
「……では、それが理由ではないでしょうか」
「………それ?」
 どれだ。とウラルは侍医をうろんげに見つめた。それに難しい顔を崩さずに侍医は自分の考えを伝える。
「魔力がかけらも見当たらないのです」
「何だと?」
「強大な魔術を施行した後などによく見られる症状です。はっきり申し上げて、死んでいないのが不思議なぐらいです」
「つまり、魔力が空っぽで倒れたのか?」
「そうです。しかし魔術師にとって魔力は命に等しいもの。極端に魔力が減れば身体の、命にも繋がる大変な事です」
「では、クロロは今?」
「身体に残った僅かな魔力によって生きている状態です」
 ウラルはどうにも手の打ち様の無い事態に歯がみする。命を助けられた自分はクロロを助けることも出来ない。
「今でさえ奇跡です。しかし数日を乗り切ればある程度魔力も戻るでしょう」
「…本当か?」
「ええ。その代わり、彼女に無理をさせないように」
 念を押され、ウラルは頷く。いや、頷こうとした。怪訝な表情で侍医を見つめる。
「……………彼女…………?」
 先程から侍医はクロロを彼女、と呼んでいる。聞き間違いと聞き流していたが、ふとあの抱き上げた時の違和感を思い出した。
 侍医はウラルの言葉に首を傾げる。彼女は彼女だ。男ではなく、はっきりとした妙齢の女性である。
「彼女は女性でしたが」
 それが何か、とうろんげにウラルを見詰め返した。
 じっと己の手を見つめ、ウラルは違和感の正体を知る。クロロの身体は骨張っていたが、男にしては身体が柔らかかった。そして抱き上げた時、偶然胸を触っていたのだ。
 そう理解するとウラルは自分の手を見つめながら顔を朱に染めた。
 そのまま頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「ああああ。何て事したんだ?俺。気絶していたとはいえ、緊急事態だったけども、女性の胸に触るとは」
 そのまま自己嫌悪に陥りそうなウラルに侍医は苦笑する。まさか性別を勘違いしていたとは気付かなかった。そうであればそれとなく本人から言わせたものを。
「まあ、取り敢えずは落ち着いていますし、ウラル様も休まれては?」
「………ああ。うん。そうだな」
 呆然としながらもウラルは頷く。しかし直ぐに思い直し、頭を振った。いや、と小さく呟く。
「クロロの傍にいたい。良いか?」
「構いませんよ」
 それに浅く頷き、ウラルはクロロが居る部屋へと入っていった。それを眺めながら、侍医は首を傾げながら一人呟く。
「ウラル様の遅い春、か?」
「それは由々しき事態ですな」
 家礼がそう返しながら近付く。その手には水差し。クロロのために持ってきていたが、ウラルが部屋に入ってしまったことによってそれを部屋に持っていくことが困難となった。
「眼が笑っているぞ」
「当然です。ウラル様が女性を連れてくるだなどと、天変地異に等しいこと」
 あわよくばあの女性と上手くいってほしいとは、長年仕える者の心そのもの。
 そんな会話が聞こえていたようで、突然扉が開き、押し黙ったウラルが顔を出す。そのまま家礼の手にあった水差しを奪うと、すぐさま扉を閉めた。苛立ちのままに音を立てて閉じたかったであろうその動作は、クロロの身体を慮って丁寧にされた。それに苦笑しながら老人二人はその場を離れた。
 水差しをベットサイドのテーブルへと置き、ウラルはクロロの顔を覗きこむ。血の気を失い蒼白に近い顔に、不安が出てくる。このまま目を覚まさない、という事も考えられる。それにウラルは奇妙な感情が胸を掠める。それがなにか、と正体を掴む間もなく、その美貌の顔立ちに喜色を纏わせた。
「クロロ!」
 うっすらと目を開いたクロロは上手く焦点が合わず何度も瞬きする。ウラルはクロロの手を取り、もう一度呼びかけた。
「クロロ、気がついたか」
 その声に反応し、クロロはゆったりとした動作で、ウラルを視界に移す。そこには己を心配するウラルの顔。それに内心首を傾げながらクロロは口を開いた。
「ウ………」
 余りに掠れたその声にウラルはぎょっとし、慌てて水差しからコップに水を移すと、クロロに持たせる。しかし握力どころか、腕を支える力も無く、コップは呆気なくクロロの手をすり抜ける。それに焦れたウラルは慎重にクロロの身体を抱え、コップをクロロの口まで宛がう。口を開き水を飲もうとするが、クロロはむせる。水分を取りたいのに、飲み込む力でさえも衰えていたことにウラルは愕然とし、クロロは水が飲めないことに苛立つ。
 緊急事態だから仕方が無い、と割り切りウラルは先にクロロに誤っておく。
「すまん、クロロ」
 何が、と返そうとしたクロロの唇に当たったのはひんやりとしたもの。驚きの余り目を見開くクロロの視界を埋めるのは、ウラルの艶やかな銀髪。そして唇に当たる冷たいものは温度を取り戻し、クロロの口を割ろうと動き出す。
 顎を固定され、何度も角度を変えて降ってくるそれにクロロは対処の仕方が判らず、ついに口を薄く開いてしまった。それをウラルは見逃さず、自らの舌をねじ込み、口に含んでいた水をクロロの口に流し込む。余りの事態に恐慌状態に陥りながらも、クロロはなんとかそれを飲み込む。口の中が空になればウラルは唇を離し、もう一度水を口に含む。
 また自分の口に降ってきたそれを今度はクロロも理解して受け止める。水を飲み込み、ウラルが与える、という動作を何度か繰り返す。
 もう要らない、という意思でクロロは微かに首を横に振ると、唇を合わせていたウラルはその意味を理解する。だからこそクロロの口から自分の舌を撤退させる瞬間、口腔を舐め上げてから離した。その行為の意味を深く考える事をクロロは半ば放棄していた。自分の唇を意味ありげに舐めるウラルを呆然とした表情で見上げ、クロロはなんだこの男は、と心中で呟く。そんな女性よりも艶めかしい表情を何故自分に晒すのか、と。
「なんだ、もう良いのか」
「……物足りなげに言わないでくれるかな。この変態」
「水を飲めないクロロを手伝ってやっただけだが?」
 しれっと言い切るウラルにクロロは引きつった笑いを向けるに留めた。そんなクロロの心中を知らずに、ウラルは扉に目を向ける。
「ちょっと医者を呼び戻してくる」
 ここから離れるな、と念を押され小さくクロロは頷く。それを見てからウラルは満足げに頷き返し、その部屋を出て行った。
 それを確認してからクロロは周りを見渡す。そこにはクロロ以外誰もいない。普段は見えている沢山の精霊たちもその姿を見つけることは出来なかった。それに首を傾げる。何かがおかしいと思ったのはその時。それを確信したのは身体を動かせるまでに魔力が回復した時だった。
 クロロが神に願った望みの代償は大半の魔力の喪失と、精霊と意思疎通をかわす力。精霊の姿は愚か、力の残滓も精霊の声さえも聞こえなくなっていた。それにクロロは自らの存在意義を見失ってしまった。