光の
天蓋

 その後姿を呆然と見送りながら、クロロは呟く。
「物分り良いくせに、なんだってあんな暴挙に出たんだか」
 首を傾げながら、クロロは今の胸のもやもやとした物には触れないでいた。それが正しい事か判別がつかないまでも、今の自分には必要ないと、切り捨てたのだ。勢いをつけて前を見据える。そこには光一つ見られない暗闇。その暗闇の先に自分の生活する砦がある。
「遠いよなぁ」
 どうしよう、と言いながらもクロロは行動を決めていた。明日に疲れが残るかもしれないが、今は早く砦に帰り着き、ベットで眠りたい、と言う欲求が何よりも勝った。掌を見れば闇の精霊がきらきらと期待した瞳でこちらを見ていた。一般的に闇の精霊は忌避されている。闇の精霊と深く関われば、その身ごと闇に堕ちると言われているのが理由だ。
 そんなものは精霊をうまく使いこなせなかった魔術師の妬み、僻みから来る妄言だ。クロロは苦笑して精霊を見つめる。
「行きにお願いしたから気が引けるけど、帰りもお願いできるかな?」
 その言葉に精霊は数を増やし、喜々として力を振るった。空を飛ぶような感覚。その後に待つのは、砦に、自身の部屋に眼だけが近付いていく変な感覚。一つ、ゆっくりと呼吸して見た場所は自分の部屋の中だった。しかもベットの前。
 そんなに思考が駄々漏れだっただろうか、とクロロは首を横に倒した。しかし疲れた思考にクロロは支配され、ベットに倒れこむ。柔らかくは無いベットがクロロの身体を受け止める。そのまま直ぐに睡魔が襲ってきた。うとうとしながらクロロは最後に見たウラルの笑顔を思い出す。
 あれは裏表が無い。そこには好感が持てるが、きっと苦労する。最悪潰されかねない。きっと直情。アキとは違いすぎる。
 そこまで思考し、アキの笑みを思い出した。何かを企んでいるような、底知れない不安が見え隠れしていた。きっとアキの掌の上で転がされる。そう解っていてもクロロに回避する術は思いつかない。出来ることは、ウラルがアキに喰われない様に祈るだけ。
 目を閉じ、そのまま意識を手放そうとしたその瞬間、声が耳元に囁く。
「ウラルを送って来たか?クロロ」
 ふ、と耳元に息を吹きかけられ、クロロは飛び起きた。そこにはいつから居たのか、アキが居た。耳を押さえながらクロロは怒りに顔を歪める。
「アキ!何をするんだ!!」
 出て行けと言わないだけの常識を残しながらも、クロロは叫ぶ。普通なら人を訪ねる時間ではない。そういうものを目前の人物に求めても無駄と言うのは解っていても言わずには居られない。
 それには答えず、アキはにやにやと不気味に笑うだけ。それに気分を害しながら、クロロはアキを睨む。
「クロロ、ウラルは止めておけ?」
「何だそれは!」
「……お兄様の言葉は覚えておいた方が良いからな?」
 全てを見透かすような視線にクロロは不信感も露にアキを見つめる。それを可笑しそうに笑って見やり、アキはクロロに向かって念を押した。
「いいか。明日は、何が起こっても私の傍を離れるな」
 そこまで念を押すようなことが起こるのか、といぶかしみながらクロロは素直に頷く。それを確認してアキは満足げに頷いた。そのまま部屋を出て行くのかと思っていたのにクロロの隣に腰を下ろす。
 それにクロロはぎょっとし、身を引く。露骨なクロロの態度にアキは苦笑しながら左手を上げる。それにクロロはびくり、と肩を揺らす。その過剰な反応にアキよりも当の本人が驚く。アキにそんな態度を取ってしまった、と困り果てたように眉を下げる。
 そんな姿を見てアキは苦笑した。身に染み付いてしまった身体の反応を咎める気は無い。むしろそんな反応を見せるクロロに申し訳ない気持ちが湧く。そうしてしまったのは自分と魔術の師である老人。独り立ちしてからは師の許を訪れる気にもならなかった。自分にとって価値が無くなったのだ。訪ねて行ってどうなるというのだ。
 しかしそのせいでこの弟弟子は酷い環境に身を落とすことになってしまった。それは今でも後悔している事だ。
 思いのほかあっけなく死んでしまった師の許に身を寄せていた孤児であったクロロは、その後孤児院に身を寄せた。優しい微笑を湛えた修道女に手を差し伸べられ、クロロは何の疑問も浮かべずその手を取った。優しい微笑を湛えた修道女は豹変し、クロロをこき使った。クロロと同じような子供たちが沢山居たその孤児院はたいした教育も施さず、ただただ子供たちに労働を強いた。
 たまたまクロロを訪ねて行った師の家に見知らぬ他人を見たアキに居場所を突き止められた時、アキを見上げるクロロの瞳には全ての大人、人間に対する不信しか見て取ることが出来なかった。それに言葉を失ったアキは修道女たちに話しを聞くが、のらりくらりと話をうやむやにし、結局クロロを、孤児たちを救うことは出来なかった。
 その孤児院が今の善良な姿になったのは、結局はクロロ一人の力である。その劣悪な環境に耐えられなくなり、クロロは魔術師の傭兵として戦場に立った。強大な魔力で敵を屠ったクロロに対して、国は動いた。負け戦を引っくり返したクロロに国から褒賞が出た。望みを叶える、との言葉に年端もいかない子供は王を睨みつけ言い放った。
「私の孤児院にいる子供たちに最良の環境を与えろ」
 その言葉に王は片眉を上げ、馬鹿にしたように嗤った。それにクロロの不信は募る。何でも与えると言いながら、なにもしてはくれない。国は孤児を居ないものとして扱うつもりなのだ。何も答えない王にクロロは見切りをつけた。何も言わず謁見の間から出て行ったクロロを王は興味深げに見ていたことを知らない。
 王は何の気まぐれかある日、クロロの居る孤児院に姿を現した。身分を隠し、貴族の慰問、と称して。突然の訪問に修道女たちは全てを取り繕うことが出来なかった。計算は愚か、自分の名前も書くことの出来ない子供たちに王は冷たい視線を修道女たちに向け、冷徹な一言を言い放った。
「子供は貴様らの奴隷ではない。余の国の礎を貴様らは壊すつもりか」
 冷ややかな視線と共に落ちた言葉に修道女は震え上がり、悲鳴を上げた。未来ある子供を奴隷のように扱うと極刑に処す、とまで王命で定められたほどだった。それほどまでに酷い環境だった、とも言えるのだが。
 どうだと言わんばかりの王に対してさえクロロは冷ややかな視線を送るだけ。他の子供たちも似たり寄ったり。大人を信じることを忘れた子供たちが残った。優しい修道女たちにもなかなか慣れることは無かった。その子供たちが態度を変え始めたのは、新たな孤児が孤児院に来たことだった。怯える子供たちに、自分たちと同じ目には合わせまいとクロロたちは修道女たちに話しかけることを覚え、頑なだった態度を軟化させていった。修道女たちの人となりを知れば、それが上辺だけのものかどうかも見る事が出来、今の孤児院は誰にとっても居心地の良いものとなっている。
 それも全てクロロが一人で手にしたもの。しかしクロロは大人になれることは無い。女性に対しても、警戒が先に出てくる。男に関しては女性以上に酷かった。今では以前のように普通に接してくるが、再会した時は酷い状態だった。精神的はもちろん、身体もがりがりに痩せ、貧相の一言に尽きた。今でも痩せぎすの身体ではあるが、以前よりもまともに成っている。なにより、あまりに貧相なので男に間違われるは、年齢より幼く見られることが日常茶飯事である。最近は開き直り、戦場に居ることが多いため、男として振舞っているのも性別を間違われる要因に拍車を掛けている状態だ。
 アキは挙げていた手を空中で止めていたが、何も無かったようにクロロの頭へと持っていく。ぎゅっと目をつぶるクロロに苦笑しながらその髪を雑に撫で回す。
「ちょ、やめろよ」
「うるさいな。黙ってこうされていろ」
 ぐしゃぐしゃと撫で、アキは諦めに似た溜め息を吐き出した。きっとクロロは明日自分を完全に見限ってしまうだろう、と。しかしそうでもしないと自国の優位に戦争が終われない。度重なる戦争で国内は疲弊している。どうしても今回は勝たなくてはいけないのだ。
 どんな手を使おうと、誰が悲しもうと、誰の信頼を失おうとも。
「すまない」
「え?」
 ぽつりと聞き逃してしまうほどの小さな声がクロロの耳を掠める。不思議に思い横を見上げる。そこには苦悩を刻んだ兄弟子の顔。何が、どうすまないのだ。そう聞こうと口を開いたクロロを視界に納めながらアキは立ち上がる。それにつられる様にクロロも腰を浮かせた。それを押し留めるようにアキは掌をクロロに向ける。そのまま何も言わず部屋を後にし、残されたクロロは明日の会談への不安を募らせた。
 快晴の翌日、クロロの眼の下にはくっきりと隈が出来ていた。きらきらと眩しい太陽を恨めしそうに見上げながら、呪詛のような言葉を低い声でぶつぶつと呟いていた。その姿は一種異様で、もともと周囲の人間はクロロを窺うようにしていたのに、その姿で周りは近寄ろうとはしない。
 そんなクロロに近寄ったのはアキ。朗らかに笑いながらクロロに話しかけた。
「おはようクロロ。良く寝れたか?」
「………お陰様で」
「クロロ。お前酷い顔だぞ?」
「あんたのせいだ」
 じろりと睨むクロロを軽くかわして頭をぽんぽんと叩く。昨夜の言葉を悶々と考え、悩んでいたことは手に取るように理解した。それでもクロロは追求しては来ない。してはいけない、と解っているから。
 クロロに甘えている、と思う。何も聞かないのを良い事に、無理難題を押し付けている。その自覚は有るが、今更止める事も出来ないでいる。
「そろそろ出発だ。気を抜くなよ」
「解ってる。行くのは私と将軍だけなのか?」
「あぁ、まあな」
 ふうん、と興味ないような返事でクロロは返す。しかし秋の言葉を全て信じたわけでもない。裏があるのは確かなのだ。今回の会談をぶち壊しかねないほどの何かが。
 正午を少し回った時間、互いの砦のちょうど中間に位置するゲド平原。見渡しの良いその平原に不釣合いな大型の机が出現していた。年代物であろう深い木の色合い、飴色の光沢、全てが高級品であることを物語っていた。その机をはさんで二人ずつ立っていた。
 一人は若将軍の異名を取るアキ。その隣に戦場を駆ける変わり者の魔術師クロロ。アキの正面には年老いた将軍。その隣に銀の悪魔こと、ウラル。その四人で会談は開始された。
「そろそろ引いては下さりませんかな将軍」
「それはこちらの台詞ですよ」
「こちらとしてもこれ以上の無益な争いはしたくは無いのですよ」
「なにをおっしゃる。元々はそちらが仕掛けた戦争でしょう」
 隣で会話を聞くクロロは表情を凍りつかせた。殺伐とした雰囲気は一触即発にも見えた。クロロの背筋に冷や汗が流れる。アキを見ればその顔には相手を小馬鹿にしたような顔つき。クロロは場所もわきまえずにアキを殴りつけたくなった。終結させる為の会談で煽ってどうする、と叫びだしたくなる。ふと視線を感じて顔を前に戻す。そこにはやや苦笑気味のウラル。少し困った風な表情で視線を隣に向ける。
『悪いな』
 小さく動かす唇を読めばそう告げていた。それにクロロは苦笑する。それはこちらも一緒だと。
『気にするな』
 そう伝えれば、ウラルは安堵したような表情を浮かべた。その顔を見ると、クロロまで安堵したくなる。そんな不思議な感覚に内心首を傾げていた。隣を見れば冷戦は続いている。馬鹿らしいと思っても、それを口に出すことは出来ない。
 小さく溜め息を付く。その時にある物に気づく。何故か精霊が多いのだ。何も思わなかったが、よく考えれば不自然なほどの精霊の多さに違和感を覚えた。アキの言葉が脳裏を掠める。その精霊に紛れて、日中にはあまり見かけない闇の精霊が多いことにも気づいた。
 何かが始まろうとしている。漠然とした不安にクロロは今までとは違う汗が全身から吹き出るのを感じる。
 それを感じ取ったのはたまたま、偶然。何かが視界を掠めた。それは憎しみ、悲しみ、苛立ち、色々な負の感情を乗せていた。その感情の発信源を辿ると、黒ずくめの人間が一人立っていた。それだけならクロロもそこまで警戒しなかっただろう。しかしその人間が手にしているものを見ればクロロの頭の中は警鐘を最大級に鳴らしていた。
 さっと隣を見上げる。そこには何も知らない風のアキ。正面を見れば微かに首を傾げるウラル。それで気づいた。あの人間は気配も全て魔術によって消しているのだと。
 その人間が手にしている弓が、どこを狙っているのかはっきりしないので防御のしようが無い。一人焦るクロロにアキは背中を叩くだけ。まるで落ち着け、と言うように。アキと話している老将軍でさえもクロロに視線を向けていた。その冷ややかな視線に少し冷静になる。
 落ち着け、と自分に言い聞かせる。何が起ころうとも落ち着いていれば惨事にはならない。そう言い聞かせ、小高くなっている丘のその奥、木が林立している辺りに視線を彷徨わせた。しかし先ほどまで居た人間はいつの間にか居なくなっている。
 え、と声にならない声で呟いた瞬間。会談場所の近くで何かが爆ぜた。その場所を確認する暇も無く、クロロは反射的にアキを押し倒す。倒れこんだアキの上に覆いかぶさり、アキに盾の織りを纏わせる。驚愕に眼を開くアキに何も言わずにクロロは上体を起こす。そこには自分に剣を突きつける老将軍。
「こんな小細工を弄するとはな」
「小細工?それはこっちの台詞だ!」
 力が爆ぜる。黒い人間が居た。老将軍の後ろには大軍。囲まれている。自分はともかくアキは助けなくてはいけない。
「これで我が軍の勝利よ」
 振りかざした剣が日の光を浴びてぎらつく。それを他人事のように見ながら、クロロは自分の心の箍が外れるのを感じた。やはり、上に立つ人間なんか、信用するべきではないのだ。民がどうなろうとも、この男たちには興味が無いのだ。そう思うとクロロの身体の中心から黒い塊が渦を巻くように出現した。
 それが何とか、その時のクロロは理解しなかった。ただ純粋に怒りに身を任せていた。どす黒いその力は、とうとう爆ぜることになる。強大で凶暴な力はクロロの望みどおりゲド平原を炎で焼き尽くした。
 その場に生きている者は探すことが出来ないほどの青白い炎に焼かれ、人は苦しみの声を上げる事無く炭と化していた。そこに呑気な声が響く。
「凄いな。見渡しが良くなった」
 驚いた顔で起き上がったのはアキ。それにゆっくりとクロロは反応し、振り向いた。そのクロロの顔を見つめながらアキは最悪の言葉を吐き出した。
「これで我が軍の勝利、だな」
 にこりと快活に笑うその姿にクロロは全てを理解した。これはアキが画策していた先の光景なのだ、と。それを作り出したのは、他ならない自分。声にならない声を喉から絞り出し、クロロは後退る。信じられないものを見る顔付きでアキを見つめる。それにアキは何も答えず、周囲を見渡す。つられる様に周囲を見るクロロは恐怖にその顔を引きつらせた。全てを焼き尽くした炎は消えたが、そこに生命の息吹は感じられなかった。
「……あ」
 自分の仕出かした事にクロロは純粋に恐怖した。自分の力に、自分自身に。今なら皆が言ってきた化け物と言う言葉を素直に受け入れられる。こんな事をしてしまった己には似合いの言葉だ。
 クロロの喉から迸るのは絶望の咆哮。両手で顔を覆い、クロロは嘆く。それを痛ましげに見つめるアキにはクロロにかける言葉が無かった。アキがこの現状を作り出したのだから。
 クロロの足に当たったのは只の偶然。それを確かめる為にクロロはそれを辿る。その先には黒く煤けた銀色の光。クロロは目を見開く。この至近距離に居たのに生きていることが解る。傍にいた年老いた将軍は炭にも成らなかったというのに。クロロは必死だった。それを助けたところで己の罪は消えることがないと解っていても必死だった。
 瀕死のウラルをその腕に抱き、クロロは助けを求める。全ての精霊に、魔力に、神にさえも。
 それは禁じられていた方法。精霊にではなく、神に力を借りることは禁じられてきた。しかしこの惨状を、微かな命を救うには神に頼るしか方法が無かった。
『天上に居らせられます至高の神々に伏してお願い申し上げる』
 その言葉は神々に伝わる唯一の言葉。クロロは神に頼ることの意味も知っていた。神は無償ではない。何かしらの代償を求める。それが無理難題に近いほど、神はその人にとって何よりも大切なものを奪う。しかしクロロには此処で起こしてしまった自分のせいで命を落とした、落とそうとしている人達の為なら自分の命でさえ差し出せた。
『愚かなるこの身を糧に消え行く命の光を再び灯すことをお願い申しあげる』
 クロロは右手を中天へと伸ばす。その手を中心にきらきらと光の粉が纏わり付く。それは神々がクロロの願いを聞き入れた証拠。薄く微笑み、クロロはその光を素に光の糸を紡ぎだす。自分の魔力が膨大に消費されるのを感じ取りながらも、クロロは手を抜かない。光の糸から織りを作り出す。傍から見れば精巧で緻密なレース編みを見上げているような織りはゲド平原全てを覆いつくした。
――後に人はそれを光の天蓋と名した。
 織りが完成した瞬間、奇跡が起こる。命を落とした者以外が、無傷で地面から起き上がったのだ。ウラルもその一人。眼を開いた視界の先には、儚く、安堵したように微笑むクロロ。しかしクロロの姿は次第にぼやけて、ついには音も無く消えてしまった。
 後に残ったのは、アキの絶叫だった。