02.忌み児

ここ、シェルバ帝國に一人の赤子が産まれた。灰色の髪に紫の瞳。自分の両親となる二人を見上げていた。しかしその赤子の父親も、産んだ母親も驚愕と恐怖で、自らの子供を抱けずにいた。
 元々、シェルバ帝國最強の魔力を誇る古参の大貴族、シュタウフェンベルク家だ。
魔力の強さには慣れている人間ばかり。
 その上、魔力が一族でも下の方、という者でさえ一般の魔術者に比べれば桁違いである。
その一族のそこそこに魔力の高い両親が、産まれたばかりの赤子のあまりの桁違いの魔力の高さに顔を青ざめさせていた。
 二人は直ぐさま一人の青年を呼び寄せた。
 フェンリル・ネイサン・ジュナイセン・シュタウフェンベルク。もう直ぐ25歳になろうという青年は首を傾げながらもその部屋に入った。
 両親は入ってきた途端、縋り付きながらフェンリルに訴えた。
「あの子が恐ろしいのよ!!あんなに強い魔力に私は耐えられないわ!!」
 むせび泣く妻を抱き寄せながら夫も匙を投げたように呟く。
「あんな化け物が私の子供とは思えないのだ」
 その言葉は青年には馴染みあるもの。散々に周りに浴びせられた悪意の言葉。自分の親に恐怖される悲しみ。
 そんな運命をこの赤子もまた、辿ると思うと人事ではなかった。ちらりと問題の赤子を見る。この家に入る前から感じていた魔力の元はこの赤子からだった。かわいそうに、とネイサンは小さく呟く。
 そして、心の底ではひっそりと歓喜していた。やっとこの『フェンリル』という重圧から解放されるのだ、と。
 まだネイサンが『フェンリル』を継いで10年。周りにとっては、たった10年。
しかし、ネイサンにとっては地獄のように長い10年だった。ネイサンの前任者は彼と同等の魔力を持っていた為に、名を受け継ぐのは先延ばしに出来ていた。
 しかし、この赤子はそうはいかない。長老達も既に動いているだろう。
 シュタウフェンベルク家を創り上げた始祖と同等、それ以上の魔力を有する赤子の誕生だ。
 ネイサンを廃しにかかるだろう。そして、赤子を手中にして操ろうとするのだ。
 それだけは避けるべき事態。ならば、自分の役割は一つに絞られた。
「ノルアック義兄さん、マルディナ姉さん、俺がその子を引き取るよ。」
 その言葉を待っていた二人は、直ぐに持って行けと赤子をフェンリルに押し付ける。顔も見たくない、と言わんばかりの対応にネイサンの顔は険しくなる。この部屋を覗き見ている気配にもネイサンは気づいていた。彼の甥にも当たる二人の息子。
二人にはまだ子供が居た。だからこその反応だった。
「二人とも、この子の名前は?」
「…顔を見てから決めようと思っていたんだ」
 つまり、名前も無い、と。じっと責める様に見つめれば、二人は苦い顔をして告げた。
「ネイサン、君の好きにすればいいよ」
 つまり、生かそうが、殺そうが、好きにしてくれ、ということだ。この子の親であることまで放棄するのか。ネイサンの瞳は凍てつく。
 その眼差しで口許だけは笑みをなんとか形作った。それは凶暴で凶悪な笑み。
「なら、この子の名は、『フェンリル』だ」
 二人は眼を限界まで見開いた。恐ろしい物を見る様に彼を見つめる。
 しかし、ネイサンと呼ばれても彼は意に介さない。
「俺の好きにすれば良いんだろう?ならこの子は今から『フェンリル』だ。俺はただのネイサンに戻らせてもらう」
 産まれて直ぐに『フェンリル』と名付けられることは、まず無かった。物心がつき、物事の善悪が解る様になるまでは、普通の子供として育てるのが常だった。
 しかし、その不文律を破ってしまうほどの魔力。それを秘めた赤子には、先ずは名が必要だった。名によってその赤子の魔力を律するのだ。
そしてネイサンはフェンリルと名づけた赤子を見下ろす。布に包まれた赤子はネイサンを見返す。その凪いだ心に魔力は暴走もしていないことがわかる。
赤子の額に指を当てる。思い描くのは光の糸。それを慎重に幾重にも折り重ねる様に結界をフェンリルに張り巡らす。糸にも織りにもフェンリルの名とネイサン自身の名を織り合わせ、真綿で包む様にフェンリルの身体に纏わせる。そして強大な魔力を暴走させ時自分の身体を傷つけないように細心の注意を払う。そうしなければ、少しでも間違えれば自分の魔力に押し潰されかねない。
しかしネイサンの魔力と二人分の真名で結界を作ってもその膨大な魔力はとどまることを知らず、溢れさせる。ネイサン一人では荷が重いと即座に判断する。脳裏に過ぎるのは一人の老人。自分の前任の『フェンリル』であった老人。
 これは前の『フェンリル』であるアルバ爺さんにも頼むか、と考えを廻らせた。そうなれば家に帰るよりも先ずはアルバ爺さんのところへ行かねば困ったことになる。
 家には妻と七歳になる息子がいるのだ。豪胆で先見の力のある妻はこの事態を把握しているであろうからともかく、息子には荷が重い。それこそ今この場に居る甥と同じ運命を辿りかねない。それでは同じ家で暮らすことになるこの赤子がかわいそうな目に合う。自身が体験してきた事を、この赤子にもさせるつもりは無い。そのためには怯えない程度の魔力に抑えないと連れて帰る事も出来ない。
そう決め、ネイサンはあいさつもおざなりに姉夫婦の家を出て行った。後に残されたのは、赤子を始末できた安堵に座り込む夫婦と両親に駆け寄る一人息子の姿だった。