手を伸ばすその先

「リュシアン、君には悪いが、婚約を破棄する」
 それは唐突に響いた。青空の下、目前の青年とお茶を飲んでいた。何も変わる事の無い風景のはずだった。それを破ったのは、青年の冷たい言葉だった。
「シエル、様……?」
 指先が小刻みに震えだす。信じられない言葉を目前の青年から聞いてしまった。何があったのか、自分の何が悪いのか、頭にはその言葉が巡る。
「私はフリアナを愛していると気づいた」
「フ、リ、アナ、様…を……?」
 その瞳に水気が溢れ出す。それを必死に引きとめながら、滲んできた視界に青年の姿を捕らえる。
 ではあの噂は本当だったのですね、そう問いかけたかったが、そんなことをすれば噂好きの貴族の姫たちと同じになってしまう、と堪えた。
 シエルとリュシアンは十年以上前から婚約していた。五歳も離れている為に、リュシアンはシエルの事を初めは兄としか見ることが出来なかった。それはシエルも同じようで、リュシアンのことを妹のように扱った。
リュシアンの心に変化が現れたのは、シエルが騎士として王宮に勤めるようになってからだ。シエルの直ぐ傍には親戚であり、王族のフリアナがいたから。二人はよく一緒に居て、周りが見惚れるほどの美男美女。フリアナとの方が年齢も近いせいか、シエルもよく笑っていた。その姿を見るたびに、リュシアンはフリアナが羨ましかった。フリアナぐらいの美人であれば、と何度も思った。そんな寂しさを紛らわしてくれたのは、フリアナの弟であり、皇太子であるユグラルド。歳も同じで大切な幼馴染だった。
しかし十四にもなれば社交界に出て行かなければならない。出て行くその先々で囁かれる言葉。
『シエル様とフリアナ様はお互いの事を思いあっていらっしゃる』
『シエル様は愛しい方がいらっしゃるのに、婚約者が』
『リュシアン様が二人の邪魔を』
 そんな言葉に打ちのめされ、シエルを探せば、フリアナと共に居る姿が多かった。そのフリアナはシエルに対して焦がれるような眼差しを向けていた。その時に味わった胸の痛みによって、リュシアンはシエルに恋していたことを知った。
そしてその恋は自覚したと同時に胸の奥深くにしまわれた。ユグラルドはそんな噂には耳を傾けるなと、リュシアンを叱った。フリアナには他に想う人が居る、と。
しかしユグラルドの言葉も気休めでしかなかったことを知る。今、本人から告げられたのだ。フリアナを愛している、と。
「わ、かりました。父にはこちらから伝えておきます」
「すまないが、頼む」
「いいえ。フリアナ様とお幸せに」
 儚く微笑みながら、リュシアンは自分を叱咤する。泣くのは後でも出来る。今は、シエルに面倒な女だと思われない様に、涙を堪えなければならない。そうして微笑んだそれを見てシエルは苦い顔をしながら、リュシアンには意味の解らない言葉を吐き出し、去っていった。
「これで君もユグラルドの傍に居る事が出来るな」
 なぜユグラルドの名前が出てきたのか。それを聞こうにもシエルはもう居ない。最後の表情にリュシアンは首を傾げながらも、頬を滑るものに気づいた。それが涙だと気づいた時には服の袖でごしごしと拭っていた。

父親に婚約破棄を告げれば、「そうか」の一言で片付いた。余りにもあっさりしすぎて拍子抜けではあった。国の要職に就く父親だからこそ、その程度で済んだのだろうか、とも考えた。
 その招待状はその時、父親から渡された。フリアナの誕生日の招待状。フリアナの直筆で是非いらして、とまで有った。行かない訳にはいかず、こうしてドレスを着てありふれた黒髪を侍女に纏めてもらってその場に立っていた。
「リューク」
「ユール」
 愛称で呼ばれ、振り返った先には、従兄弟であり、幼馴染のユグラルドがいた。その幼馴染の視線はリュシアンを通り越していた。その先に何があるのかを、リュシアンは理解し、苦笑する。
「リューク、何。あれ」
「あれって?」
「婚約者。占領されてるけど」
 占領されているのはいつもの事。そう、リュシアンは溜め息を付きながら呟く。それに気分を害したユグラルドは視線の先、シエルとフリアナを睨む。
「姉上も配慮が足りないよね」
 俺が引き剥がして来ようか、と凶悪な笑顔で提案するユグラルドにリュシアンは困った顔で首を横に振る。そして自分たちを心配していた、この優しい幼馴染にも告げなくては、と口を開いた。
「シエル様とね、婚約解消したのよ」
「はぁ!?」
「シエル様はフリアナ様のことが好きなんだって」
「姉上の事を!?」
 ない、ありえない、とユグラルドは首を振る。有り得ない。シエルはリュシアンのことを何よりも大切にしていた。只の幼馴染であるユグラルドに対して、何かと嫉妬するぐらいには。
 以前、余裕ないね、大人げないんじゃない、とからかってやれば凄まじいさっきと共に睨まれた事がある。逆に言えばそんな彼がリュシアンを手放すことはありえないことなのだ。
「ちょっと、二人に聞いてくるよ」
 ここで待ってて、とユグラルドはリュシアンに言ってからシエルに近付く。それが悲劇の始まりとも気づかずに。

「まぁ、リュシアン様では有りませんの?」
「あら、本当だわ」
「お久しぶりですわね」
 そう話しかけてきたのは、リュシアンの苦手な三人だった。しかもこの三人、いつもマナー違反をしてくる。リュシアンよりも身分は低いのに、自分たちから離しかけてくるのだ。それはいつもリュシアンが一人になったときを狙ってやってくる。そして毒をリュシアンに流し込み、嘲笑と共に去っていくのだ。
「まぁ、リュシアン様も厚顔ですのね」
「本当に。今日はフリアナ様のご生誕を祝う席ですのに」
「未練たらしくシエル様に付き纏っていらっしゃるの?」
 無様ですこと、と続くその悪意に満ちた言葉にリュシアンは嫌気が差し、その場を離れる。しかし三人は付き纏ってくる。人気の少ないバルコニーに出たのは誤算だったとしか言いようが無い。
「しかもシエル様の次はユグラルド様ですの?」
「釣り合いが取れないとはお思いになられないのですか?」
「どうせまた、お父様に強請ったのでしょうけど」
 お父様が権力をお持ちだと得ですわよね、と嫌味たらしく言ってくるその言葉に、リュシアンは三人を睨む。
 その視線に三人はますます怒りを露にする。軽くリュシアンを後ろへと突き飛ばすが、リュシアンは二、三歩後ろへと動いただけで、視線のきつさは彼女たちに向いたままだ。それに矜持を傷つけられた三人は渾身の力を込めて、リュシアンを突き飛ばした。
 それによって手摺りに付いていた彼女の手はがくりと外に滑り、体勢を崩したリュシアンの上体は呆気なく宙に投げ出された。
 急に天地が入れ替わったリュシアンの視界には驚愕と恐怖に彩られた三人の顔。そして真っ暗な王宮の庭、木々を映し、あっという間に地面が視界に入った。衝撃が来ると思ってぎゅっと目を閉じたが、頭を庇う事までは思い居たらなかった。

「シエルさぁ、婚約解消したって本当なの?」
 シエルの顔を見たユグラルドは開口一番そう聞いた。その言葉にシエルは微かに顔を歪めた。貴様には関係ない、そう言いたかったがそれも今の自分には言う資格が無い台詞だと思い、踏みとどまる。
「ユール、もう少し言い方は無いの?」
 フリアナでさえ表情を苦いものに歪めている。ごめんなさい、と言うがフリアナには関係の無い事。
「リュークにさぁ、姉上を愛してるって言ったんだって?」
 そんな見え透いた嘘、止めてくれない、とユグラルドはシエルを睨みつける。シエルからの敵視やお門違いな嫉妬にも、笑顔でいなしていたユグラルドが、シエルに対して本気で怒りを露にしていた。見え透いた嘘、の部分で一瞬傷ついたフリアナにはユグラルドは気付いていても無視をした。自分の恋心にリュシアンの幸せを壊したのだから、それぐらいは覚悟するべきなのだ。
「リュークに対する想いってそんな程度なわけ?」
 見込み違いだった、とユグラルドは苦く呟く。その言葉にシエルも激昂する。
「その程度、だと?」
「うん。その程度。だからあんたの思惑に乗ってあげるよ」
「……何だと?」
 ふ、と人を小ばかにしたような表情を浮かべ、ユグラルドはシエルに宣言する。
「大切な幼馴染を守るために俺の奥さんにするよ」
「ユール?」
 ちらりとユグラルドは自分の姉を見遣る。シエルの気持ちを何も知らない馬鹿な女。だから知らせてやらないと。
「シエルはさ、馬鹿なんだよ。」
「……おい。」
「リュークが俺の事好きだとか思ってるんだよ」
 有り得ないのにね、とそれはシエルに向かって呟く。
「リュークはずっとシエルしか見てなかったっていうのにね」
 本当に、馬鹿じゃないの。そう呟くユグラルドの顔は、出来の悪い子供を見ているように困った顔をしていた。

ごつり、と鈍い音がその場に響いた。頭が揺さぶられる。うめき声を上げる事が出来ないほどの痛みをリュシアンは味わった。
 痛い、痛い、痛い。目を閉じれば、ほろり、と涙がこぼれる。それは痛みに対してなのか、先ほどの仕打ちに対してなのか、リュシアンには判断できなかった。
 周囲の悲鳴もどこか他人事のように聞こえ、うっすらと開いたその視界には自分の腕が見えた。それを動かそうとした。頭では腕を動かしたつもりだった。しかし視界に映る自身の腕は、微塵も動くことは無い。それに一種の恐怖を感じたが、それを突き止める間もなく、リュシアンは痛みにその視界は黒く塗り潰された。