手を伸ばすその先

その悲鳴は直ぐにシエルにも、フリアナにも、ユグラルドにさえも届いた。三人はすぐさま悲鳴の元まで駆けつける。そこにはへたり込んだ少女三人。
「君たち、一体何があった」
 険しい顔つきでシエルが声をかける。シエルにはその三人の顔に見覚えがあった。いつもリュシアンの傍にいた三人である。
「あ、あの、私たち、その……」
「何があったかはっきり言わないか」
「ひっ、あ、あ、あの子が、バルコニーから」
 その言葉にいち早く反応したのはユグラルド。駆け出し、バルコニーから身を乗り出し下を確認する。そしてそれを見つけ、蒼白になって駆け出す。
一体何が、とバルコニーへと近付こうとしたシエルに三人は縋りつく。
「わ、わざとじゃないんです!」
「あ、あの子が勝手に!」
 その言葉にシエルの不快感は否応も無く増す。顔を顰め、縋りつく三人を手荒に引き剥がす。バルコニーから下を見れば、最悪の光景が広がっていた。
 頭が真っ白になる。そんな体験をシエルは味わう。思考が空回りし、一向に纏まらない。身体でさえ思うように動かない。
「シエル、一体何が?」
「フ、リアナ。貴女はここに」
 なんとかそれだけを振り絞りフリアナへと伝える。シエルはふら付きそうになる自身の脚を叱咤し、庭へと駆け出す。
 そこには既にユグラルドが居た。意識の無いリュシアンの首を触り、脈を確かめ、胸が動いていることを確かめた。そして外傷が無いかを調べていたその手は、止まる。
 暗い中では、解りにくいが、それでも直ぐに気づくそれ。頭から流れているそれ。慎重に頭を動かし後頭部を触る。そこにはどろりとした感触。見なくとも解ってしまうそれは、血液。
「シエル、医者、呼んで」
「……!」
 シエルは震える手を握り締め、庭から建物内へと駆け出す。医者をすぐさま見つけ、庭へ行くように命じ、傍を通りかかる侍女を捕まえて、庭から一番近い部屋に清潔なシーツと、水を沢山用意させる。
 ベットへと慎重に寝かされたリュシアンに医者は、取り敢えずは命に危険は無い、と診断した。それに安堵するが、医者は険しい顔を崩さない。それにシエルとユグラルドは不安に駆られる。医者は何を懸念しているのか、と。
 その懸念は直ぐに二人の知れることとなる。

「う、ん……」
 小さな声に反応したのはユグラルド。ベットの直ぐ傍に椅子を置き、そこに腕を組みながら座っていた。シエルとフリアナは強制的に帰らせた。ユグラルド的に邪魔だったからと、リュシアンの心の安寧の為にも二人は居ないほうが好都合だったから。
「リューク、気づいた?」
「うぅ、あたま、いたい」
「それは仕方ないよ。後頭部をかなり強くぶつけたみたいだから」
 首を横に動かし、リュシアンはユグラルドと顔を合わせる。心配そうな表情のユグラルドに申し訳なく思い、どこも悪くは無い、と示そうとした。しかし腕は愚か、手も動かない。
「……え」
 リュシアンは己の身体に何が起こったのか、理解できなかった。首は動く。眼も見えているし、話すことも出来ている。しかし首から下の腕や脚が動かないのだ。
「あ、え?な、何がどうなってるの?」
 リュシアンの様子にユグラルドも気づく。不安と恐怖に塗り固められたその瞳に、ユグラルドもまた恐怖に慄く。
「リューク、どうした」
「ユール、身体が、動かない」
 その言葉にユグラルドはリュシアンの身体に掛かっていた毛布やシーツを剥ぐ。手を持ち上げるが、それはいつに無い重さを持っていた。まるで気を失った人のような重さ。脚に触れるが、小さな抵抗さえも見られない。リュシアンの顔を見れば羞恥で深紅に染まっている。つまりは足を動かして拒否をしたいほどの行為、となる。
「直ぐに医者呼んでくるから」
 ユグラルドはリュシアンの身体にシーツを被せ、部屋を後にする。医者を呼びに行く道すがら、ユグラルドの脳裏を駆けるのは昨晩の浮かない顔をした医者。懸念はこれか、とユグラルドは舌打ちした。
 もしもこのまま身体が動かなければ、リュシアンは社会的に抹殺される。まだ結婚もしていない。まして婚約者もいないこの状況では誰もリュシアンを自分の妻には望まない。
たとえリュシアンが公爵家の姫でも。むしろ公爵家からも見捨てられる可能性がある。
それだけは避けなければいけない。しかし自分の妻には出来ない可能性が強まった。王妃には五体満足の、なんの障害も無い女性でなければいけない。
最悪リュシアンを自分の妻にしてこの針の筵から救ってあげようとしたことが裏目に出た。さっさと適当なヤツと婚約させていれば、と悔やまれる。そこは父親である王にも協力させる気ではあったが。

「どうなんだ?」
 医者は難しい顔を解く事無く、リュシアンの身体を調べ終えた。小さく溜め息を付き、医者はリュシアンへと憐憫の眼差しを向ける。
「身体が元のように動く可能性は、奇跡です」
 その言葉にリュシアンは絶望した。また父に迷惑をかけてしまう、と。
「先生、屋敷に帰ることは出来ますか?」
「当分は身体は動かさないでいただきたい」
 奇跡に縋りたいなら、と医者は首を横に振りながら告げる。そしてある場所と人の名前を紙に記し、ユグラルドへと預ける。
「身体を動かすことを専門にする医者の名です。そこに行かれてみては如何でしょう」
「すまない」
 貴女にセイラムの奇跡が訪れんことを、とリュシアンに呟き医者は部屋を後にした。
「医者が言う台詞ではないはね。」
 神の奇跡に縋れだなんて。嘲笑うような表情にユグラルドは顔を顰める。彼女は人を貶めるような事は口にしない。つまり、これは自分に言った言葉。『奇跡に縋らねばならない人間に成り下がってしまった』という事だろう。
「リュシアン、取り合えずひと月はここに居てもらうよ」
「ユール」
「これは決定事項。父上も許してくれるよ」
 可愛いリュシアンの為だもの。そうおどけてみても彼女の表情は暗く沈んだまま。彼女から笑顔を奪った三人にはきちんとした処罰を願い出なくてはいけない、そう心に誓う。リュシアンの髪をくしゃりと撫で、ユグラルドは部屋を後にする。
 部屋のすぐ前には案の定シエルが居た。それにユグラルドは不愉快になりながらシエルに釘を刺す。
「中に入ろうなんて考えないでよ」
「……リュシアンは……」
「もう、シエルには関係ないでしょ」
 捨てたのはそっちなんだからさ、と言い捨てながらユグラルドは歩き始める。それをシエルは無理に引き止める。
「関係はある」
「………うん」
 その言葉にほっとするシエルにユグラルドはにっこりと笑顔を向けて言い切る。
「関係ないよね」
 じゃあね、とシエルに捉まれた腕を引き剥がし、歩いていく。その後姿を今度はシエルは引き止めることはしなかった。確かに関係を断ち切ったのは、自分の方だった。それを思えば、リュシアンの傍にいたいと思うのはむしが良すぎた。

「それは最悪の事態だな」
「ですよねぇ。俺の奥さんていう手が無くなったから、困ってるんですよ」
「……私の姪っ子をお前なんかに渡すか」
「待って。俺、貴方の子供ですよね!?」
 子供の前に出来の悪い小僧だ、と吐き捨てられ、少しユグラルドも心が傷つく。しかしそんなことよりもリュシアンの事が先になる。
「とりあえずはこの場所で静養させないといけませんね」
「取り敢えず、はな」
 問題はその後となる。リュシアンが得るはずだった幸せは、倍にして返してやりたい。だが、それもリュシアンを愛している、というものが前提となる。
「身体が動かないと千年の恋も吹き飛ぶかな」
「その程度の男にリュシアンはやらん」
「ですよねー」
 この姪っ子命め、と心の中だけで毒づく。そこへいくとシエルは適当な人材だった。顔良し、家柄良し、職業良し、性格…まあ良し。リュシアンしか目に入っていない様子は、姪っ子命の中で、唯一の及第点を叩き出した男だった。それがどんな奇跡だったかをシエルは理解していない。きっと、シエルがリュシアンを手に入れたいと望んでも、二度とシエルにはリュシアンを渡す気にはならない。国王がどんな事をしてでも渡さないだろう。
 馬鹿だな、とユグラルドは心中でシエルを嘲笑する。

 そのひと月の間、シエルは何度となくリュシアンのいる部屋に訪れていた。しかし中に入る事は出来なかった。リュシアンが誰かに会う事を望まなかった為と、ユグラルドが妨害した為だ。
 しかもユグラルドはシエルが来ている事をリュシアンには伝えなかった。リュシアンを傷つけた相手に会わせる気は微塵もなかった。
「リューク、ちゃんとご飯食べてる?」
「食べてるわよ」
 リュシアンは即答するが、その身体は明らかに細くなっていた。ユグラルドは盛大に溜息をついて、リュシアンのベットに腰掛ける。たくさんのクッションに埋もれるようにリュシアンはなんとか上体を起こしていた。その姿は起き上がるのも精一杯、というのがひしひしと伝わる。
「リューク、やっぱりここに行かない?」
 そう示したのは、あの医者が言っていた場所。そしてその質問は一度ではない。何度となく聞き、その度にリュシアンは複雑な表情を見せた。
「俺はほんの少しでも、奇跡が起こるならそれに縋りたい」
「……セイラムの奇跡よ。起きるのは万に一つよ」
「それでも、リュークが今よりも幸せになるなら、俺は奇跡でも起こしたい」
「………ユール」
 困り果てたその顔にユグラルドは微笑みかける。
「もちろん姉上にも、シエルにも居場所は教えない」
 最高の条件だ、と言わんばかりのユグラルドの言葉にリュシアンは溜息混じりに頷いた。
「ユールの気が済むなら好きにして」
 リュシアンの承諾をもぎ取った後のユグラルドの行動は迅速だった。その日のうちにリュシアンの荷物は粗方送られ、二日後にはリュシアン自身も王宮を出ていた。
 それから三ヶ月、骨格、筋肉、神経、という分野の専門の医師に診察してもらい、努力すれば、ある程度動かす事が出来るかもしれない、という診断をもらった。リュシアンはその診断を元に、専門の医師による動かすための訓練を始めた。
 始めたばかりは、ほんの少し動かすだけで玉のような汗を掻き、直ぐに疲れ果てた。それを繰り返した結果、立ち上がりに介助は要すものの、少しの時間ならば立ち続けることが出来た。何かに掴まってでないと立てないが、一人で立てる事が嬉しかった。
しかしそこから足を踏み出す事は出来ず、直ぐに膝の力が抜けた。最近では室内では怪我の危険もあるから、と芝生が一面に覆われた中庭で訓練する事が多くなった。
そしてリュシアンへの客はそんな時にやって来た。

「え、フリアナ様が?」
 自分に付いて来てくれた侍女の一人が困惑も顕にそう口にした。ユグラルドは誰にも自分が此処に居る事は言わないと約束していたのに、と心中で詰る。しかしユグラルドの立場であれば、言わなくてはならない状況も現れてくる。仕方がないので小さな客室に案内するように指示を出した。
 そうして久しぶりに会った従姉妹は、言葉を発する前に頭を垂れた。
ごめんなさい、そう呟いた声にリュシアンは聞こえない振りをした。涙を流しながら謝罪するその姿は可憐。見るものに憐憫を与える。しかしそれも被害者であるリュシアンには何の効果もない。心にも響いてこない。白けた視線をフリアナに向ける。
「フリアナ様がなぜ私に謝るのですか」
「私のせいで、リュークがこんな事になってしまったわ」
「あの三人は貴女の差し金、という訳ですか?」
 その冷たい一言にフリアナは俯いていた顔を上げ、必死に頭を横に振った。
「いいえ!違うわ!」
 しかし否定した途端、彼女は力なく項垂れた。彼女たちは自分の命令で動いたわけではない。だが、フリアナのことを思っての行動だった。
それはつまりフリアナの差し金、となっても可笑しくはない。項垂れるフリアナにリュシアンは見切りをつけた。
「もう、いいです。」
それは、フリアナにはどうでもいい、と聞こえた。どこまでも冷たい態度と声音にフリアナは一層の悲しみを覚えた。自分の行いでこんなにも大切な従姉妹が、心を閉ざしてしまった事に罪の意識が重く圧し掛かった。
「リューク、お願いよ。私のことは許さなくて良いから、シエルのことは受け入れてあげて」
なんとも方向違いのお願いに、リュシアンは盛大に溜息をついた。結局はそこか、と。
「シエル様に頼まれましたか?」
「違うわ。私の意志よ」
「そうですか。」
 リュシアンの凍てついた瞳はフリアナの身体をその場に縫い止める。そのままリュシアンはフリアナに扉を示した。
「フリアナ様、お帰りはあちらです」
 有無を言わせないその言葉にフリアナは心中でシエルに謝罪する。自分ではリュシアンの凍てついた心を溶かす一端にもなれなかった。
しかしそれさえも自分の罪悪感を軽くしたいが為の行動だったと、気付く。自分を悲劇の主人公に仕立て上げた姿に、誰が同情するだろうか。リュシアンは全て、フリアナの気持ちですら読み取って、拒絶したのだ。
リュシアナの冷たい瞳にはその意思が見て取れた。
「シエルがここを訪れる事を貴女は許してくれる?」
「許しません。そんな事になれば貴女を二度と許さない」
 非難をその眼と声に宿したリュシアンはフリアナを睨み付ける。要らない事をしてくれるな。その瞳が物語っていたが、フリアナは何も答えずにリュシアンの許を去っていった。