手を伸ばすその先

 しかしリュシアンの不安をよそに、シエルは訪れなかった。事故から半年、なんとか手は握る事が出来るようになったが、力加減が出来ず、よく物を落としていた。
その日も柔らかい球を掴んだり、放したりしていた。その拍子に意外に遠くまで転がっていってしまいリュシアンは困ってしまった。出来る事はなるべく自分でするようにしてはいるが、あまりに距離が遠い。普通の人ならば歩いて二、三歩でもリュシアンにとってはものすごく遠い場所だった。
何とか立ち上がろうとした時に、大きな節くれ立った手が視界に現れた。え、と呟く間にその手は球を手に取り、近づく。視線を上に向ければ穏やかに微笑むシエル。
穏やかに笑ってはいたが、その瞳には紛れもなく緊張が走っていた。そんなシエルの姿を捉えた瞬間、気が逸れた。手の力は呆気なく抜けて、肘は自分の体重を支える事を放棄してしまった。地面にぶつかると覚悟したとき、暖かい物が身体を包んだ。
背中に回されたそれに気付き、眼を開ければ視界一杯に広がる黒色。それは規則正しく上下し、暖かい。耳にはとくとくと生きている証拠である鼓動が聞こえる。何だ、と考え、答えが出る前に、暖かいそれから溜息が漏れた。
「貴女は私の寿命をどれだけ縮めれば気が済むんだ」
 溜息交じりの台詞にはこちらが申し訳なく感じる切実さが滲み出ていた。しかしリュシアンにとっては予想外の事。なぜ、どうしてここにシエルが居るのか。驚きに言葉も出ないリュシアンに苦笑しながら、シエルは「失礼」と一言告げるのみ。
 その言葉の後にはリュシアンの身体は浮いていた。ぎこちない動きしか出来ないリュシアンはシエルに抱き上げられても、抵抗らしい抵抗は出来なかった。
「シエル様!」
 その声にシエルは腕の中の少女に視線を向けるが、その視線は彼女を咎めるものだった。
「リュシアン、以前より身体が薄くなっているようだが?」
「う、うすっ……!」
 シエルの言い方にリュシアンは言葉もないが、シエルはそれを気にした様子も見せず、さらに問いかける。
「食事を摂ってくれないと侍女か嘆いていたが」
「な、な、な」
 わなわなと身体が震えるも、シエルにとっては大した事ではない。じっとりとリュシアンを見つめる。その視線にいつもリュシアンは根を上げていた。どうなんだ、と視線で問われ、リュシアンは悲鳴のように声を上げる。
「食べています!薄くもなっていません!」
「ほぉ?」
 その声は普段の声よりも低い。怒る時の彼の特徴にリュシアンはひくり、と口元を歪めた。なぜにこんな会話になったのか、とリュシアンが困惑していればその理由が現れた。
 そこにはしっかりと食事の準備がしてあった。なんで、と叫べばシエルに呆れた様に息を吐き出された。原因はそれか、と。
「リュシアン、今は昼も大分過ぎた時間だ」
「え?」
 自覚していないだけに厄介。訓練を頑張り過ぎて食事を抜く事も、かなりの頻度であると言っていた。思ったよりも重症だ。シエルはユグラルドに言われた事を思い出す。

『はっきり言って、今の君論外だよ』
 何がだ、と問えば小馬鹿にしたようにユグラルドは言葉を投げつける。
『リュークを信じなかったし、聞こうともしなかったよね』
 何に対してかは自身がよく理解していた。ただ一言、彼女に聞けばよかったのだ。
『それでも彼女が欲しい』
『本当に厚顔だよね』
 何と言われようとも構わなかった。ただ彼女の手をもう一度この手に収めたい。彼女の隣を占領したい。
『リュークから承諾を受けたら?』
 出来れば、の話だけど。それが出来る可能性は低い。リュシアンのことを思えばこんな奴にリュシアンの居場所も、リュシアンの現状も知らせたくはない。
 しかしそうしなければリュシアンは遠からず倒れる。今でさえ寝食を惜しみすぎていると侍女から泣き付かれているのだ。シエルがリュシアンの許に行けば、確実に問題は解決するだろう。シエルは基本的にリュシアンには甘い。甘やかす。今のリュシアンを見れば確実に怒るであろう姿も想像できる。
『リューク今ちょっと大変だからさ』
 行っても相手にして貰えないんじゃない。そんな言葉とともに渡されたリュシアンの居場所。そこは療養地として有名な場所だった。

シエルは用意された椅子に座り、リュシアンはシエルの膝の上に座らされた。じたじたと逃げようとするリュシアンの腰に腕を回し、抱き寄せる。その仕草だけで氷のように固まるリュシアンに忍び笑いをして、昼食を食べるように促す。それに恨めしそうな視線をシエルに向けながらも、その手はスプーンを握った。
ゆっくりとした動作で食べ始めるものの、リュシアンは直ぐに手を止める。理由は一つ。酷く疲れるのだ。食べる事に体力を要するあまり、食べる事に嫌気が差している。だから食べない、という負の連鎖が続く。
「もう食べないのか?」
 まだ食べ始めたばかりだろう、とシエルは非難する。しかしリュシアンは疲れることは訓練で散々している為に、できれば回避したい。
「疲れるので欲しくありません」
 ぷい、と他所を見ながら言う台詞に、シエルは苦笑をこぼす。そういう理由か、と。
「ならば、私が食べさせよう」
 リュシアンの置いたスプーンを手に取り、シエルは食べ物を掬い、リュシアンの口許に宛がう。それにぎょっとしたのはリュシアン。
「そんなっ」
 全てを言い切る間にシエルによってスプーンを口の中に入れられる。リュシアンは文句よりも先にそれを咀嚼せざるをえない。黙って口を動かし、嚥下する。シエルは既に次を用意していた。文句を言いたいのに有無を言わせないシエルに、リュシアンは諦め雛鳥の様に口を開けた。
 しかし半分も減らないうちにリュシアンはシエルに、もう入らないと首を横に振る。それにシエルは不満を覚えながらスプーンを置いた。それをほっとした心地で眺めていたリュシアンは、やっとシエルの存在に違和感を覚えた。
「シエル様、なぜ此処に?」
「大切な貴女を支えるために」
 心底愛おしそうにリュシアンの髪を撫でる。その髪はこちらに来てから侍女に頼んで切って貰ったのだ。腰まであったその黒髪は、訓練の邪魔になるだろうと肩の当たりまでに切りそろえた。それを惜しむかのようにシエルはリュシアンの髪を手で梳いていく。
 その感触にくすぐったさを感じながらも、リュシアンはシエルの言葉を吟味する。
「大切、とは?」
「貴女が誰よりも大切だからそう言っただけだが」
「シエル様の大切な方はフリアナ様でしょう?」
 そのリュシアンの言葉にシエルは言葉を詰まらせる。それを肯定と取ったリュシアンはシエルの腕から逃げ出そうとする。それをシエルは許さない。
「リュシアン」
 耳元で囁かれるその声にリュシアンの動きは止まる。耳を赤く染めるリュシアンに気を良くしながらシエルはさらにリュシアンを自分の両腕で閉じ込める。
「愛しているのは貴女だけだ」
 無口で不器用なシエルの精一杯の告白。しかしリュシアンはそれに心を動かされる事は無い。フリアナを愛していると言った。妹のようにしか見れないと言っていた。リュシアンの脳裏に一つの言葉が閃く。
「同情ですか」
 こんな身体になってしまった自分に対しての。その言葉にシエルの拘束はますます強まる。抱きしめ、閉じ込め、誰にも触れさせたくは無い。
「違う」
 苦しそうに吐き出したその言葉に、リュシアンは首を傾げる。
「貴女は、あいつを……ユグラルドを好きなのだろう?」
「は?」
 それは寝耳に水の言葉。自分がユグラルドを好きなわけは無い。あの人はどこまで行っても従兄弟で幼馴染だ。
「いつもあいつと一緒に居ただろう」
「それはっ!」
 どうすればシエルにつり合うか、どうすればシエルが己を好いてくれるのか、相談をしていただけだ。
「それは?」
 そんな事を本人には言えない。言いたくない。
「答えられない?」
 冷ややかな声。リュシアンの息が詰まる。シエルの長い指がリュシアンの頤に触れる。そのまま優しく後ろを向かせるが、振り向いた先に見えたものにリュシアンはぎくりと身体を強張らせた。
「あいつを愛しているのか」
 シエルの瞳には仄暗い嫉妬の色が見えていた。それに恐怖しながらリュシアンは口を開いた。しかしその口から言葉が紡がれる事はなかった。
「貴女があいつを愛していようがどうでも良い」
 もう遠慮も、身を引く事もしない。あいつを好きでも気にする事はない。自分を振り向かせる。
 リュシアンをそっと上向かせ、その唇に、自分のそれで触れた。柔らかいそれにシエルはもっと、と貪る。リュシアンは息も絶え絶えに弱々しく腕を持ち上げた。それだけで息が上がり、うっかりと口を開けてしまう。それを逃さないシエルはリュシアンの熱い腔内に舌を滑り込ませた。びくり、と身体が震えるリュシアンをシエルは押さえ込み、好き勝手にリュシアンを味わう。ぐったりとしたリュシアンを自分の胸に持たれ掛けさせ、シエルはやっとリュシアンの唇から離れた。
 顔を真紅に染め、涙で潤む瞳でシエルを睨みつける様は扇情的で、もう一度、と触れ、体中を余すところ無く味わいたい気分にさせた。
「もう一度この手を取ってはくれないか?」
 縋るその言葉にリュシアンは困惑した。自分こそがシエルに縋っていた。それなのに自分がシエルを突き放そうとしているのではないか。その困惑は身体に現れた。手が震える。その手を取っても良いのだろうか。もう一度自分は傷付けられるのではないか。そんな負の想いばかりが頭を占領した。
 シエルはリュシアンの困惑を感じ取り、自分の行いを恥じる。聞いてしまえば簡単な事だった。答えは聞いていないが、こちらの心を見せればリュシアンはそれに答えてくれる。
 ずっとリュシアンはその手を自分に伸ばしてくれていた。それを気付かずにリュシアンの気持ちを優先させると言いながら、自分自身が傷つく事を恐れた。その代償が今、目の前にある。
 何の迷いも無く手を伸ばしてくれていたのに、その手がもう一度自分に伸ばす事を躊躇っている。
「陛下は、きっと私の事を貴女の傍から排除しようとするだろう」
「え?」
「それでも私は貴女と共に歩んで生きたい」
 貴女の苦しみも、悲しみも、全て分かち合いたい。その言葉にリュシアンはくしゃりと顔を歪める。
「私の隣に居て欲しいのは、リュシアン。貴女だけだ」
 リュシアンはもう堪える事が出来なくなった。ほろほろと静かに涙を流しながら、必死に腕をシエルに向かって伸ばした。
 その手を至宝のように押し戴き、シエルはセイラムの奇跡に感謝した。

リュシアンのお願いに屈し、国王が二人の結婚を許したのは、それから三年後の事となる。