後編

「どんなお部屋ですか?」
「うーん。妹たちに任せてしまったので私はきちんと見てはいないのですよ」
 馬鹿正直にも程がある、とスイは頭を抱えたくなった。妹は、と視界の端で捉えたが、たいして気にしていなかったので胸をなでおろす。ここで癇癪を起こされても困るだけだ。
「イヴ嬢はこちらでお待ちいただけますか」
「まあ!可愛らしい!」
 眼をきらきらと輝かせる部屋は白とピンクとレースだった。スイは明らかな少女趣味な部屋に顔を引きつらせないのが精一杯だ。皇太子はイヴの反応ににこにこしながら、応える。
「気に入っていただけて何よりです。スイ嬢はこちらにどうぞ」
「え?」
 自分もこの部屋にいるのではないのか、という疑問。しかしそれよりもこの少女趣味に居なくて良いという安堵。二つの感情をない交ぜにしながらイヴを見る。イヴは一人にさせるという驚きで呆然としている。
「あの、皇太子殿下」
「スイ嬢。そんなに堅苦しくしないでフロウ、と呼んでください」
「……殿下」
「フロウ、ですよ」
 にこにこと無邪気な笑顔で、その実、有無を言わせぬ無言の圧力にスイは顔を引きつらせる。皇太子を名前で呼ぶなど出来る訳がない。言葉に窮していると、イヴが二人の間に割り込む。
「フロウ殿下、私はお姉さまと一緒には居られないのですか?」
 瞳をうるうるとさせ、捨て犬のような庇護欲をそそる顔で皇太子に近寄る。普通の男なら完全にイヴの言うことを聞いたであろうその表情にも皇太子は顔色一つ変えずに、首肯した。
「イヴ嬢が来られるとは思っていなかったので、用意していなかったのですよ」
「でも、お城に来たのも初めてなので、お姉さまと一緒にいたいのです」
「うーん。でも、スイ嬢との話は貴女には退屈なのでは?」
「そんなことありませんわ!私の解らないお話なら口は挟みませんから!」
「………スイ嬢はどう思われますか?」
 あ、困ってこっちに振ったな、と内心呆れながらスイはイヴと皇太子の顔を交互に見る。別に婚姻うんぬんの話になればイヴは口を挟まないと解っている。どうしても自分と二人になりたそうな雰囲気の皇太子に内心首を傾げつつ、イヴに釘を刺す。
「イヴ。皇太子殿下をあまり困らせないの」
「だって姉さま」
「むくれないの。可愛い顔が台無しよ」
「むーー」
「動物じゃないのだから変な泣き声をださないの」
「だって姉さま」
 今までの駄々をこねる口調とは違う真剣な口調にスイは軽く首をかしげた。
「妙齢の女性と二人きり、と言うのはいくらなんでもダメです!」
「うーん。僕って信用がないのかな?」
「フロウ殿下がどう、というわけではないんですよ!一般的に、です!」
「まぁ、イヴ嬢がお姉さまの貞操の心配をしているのなら同席願いましょうか」
 気分を害した風もなく皇太子はにこにことイヴに告げる。それなら動くのも面倒だからと、少女趣味のこの部屋で話をすることになった。イヴは満面の笑顔でスイの隣に座り、スイの腕を我が物顔に独占していた。その姿にスイも皇太子も苦笑しながら今回の呼び出しについて話し始めた。
「書状でも伝えましたが、スイ嬢には僕の妻になっていただきたいのです」
「そのことですが、何故私なのでしょうか」
「なぜ、とは?」
「私は取り立てて突出した物は有りませんし、イヴのように美人と言うわけでもありません」
「僕がスイ嬢を選んだ理由、ですか」
「私の納得できる、明確な理由をお願いいたします」
「明確、ねぇ」
 腕を組み、片手は顎に添える。足も組んでソファに座るその姿は為政者の姿だった。その状態のまま、ちらりとスイを見やり、皇太子は微かに口の端を上げる。
「一目ぼれをした、と言えば信じてくれますか?」
「は?」
 予想していなかった言葉だ。
―――一目ぼれ。
一番ありえない現象だった。スイは流石に言葉に詰まる。なんと返すのが妥当なのか必死に考えるが、思考が上滑りしてちっともまとまらない。
「貴女を初めて見かけたのは、確か練兵場でした」
 れんぺいじょう、と呟くが全く記憶にない。
「クレイドルに忘れ物を届けていましたよね」
「えぇ。一度だけ」
「普通なら使用人に持たせるものを、貴女は自ら持って行っていた。それが珍しかったのですよ」
「………それで?」
 ん?と皇太子は首を捻った。普通の婦女子なら頬を赤らめて謙遜する場面だ。それをこの少女は信用ならない、と言う表情で睥睨していた。
 何か間違っていただろうか、と考える。普段ならば笑顔を向ければそれで事は済んでいた。理由を聞いてくる女性や、まともに会話をした女性は今まで居なかったんだが。
「……それで、クレイドルに君の事を聞いたのがきっかけ、かな?」
「そういう建前は時間の無駄ですのでいりません」
「へぇ、本当に君は型破りだね」
「貴方は猫を被って女性を翻弄するのが楽しいみたいですね。……悪趣味」
「人聞きが悪いなぁ。僕が笑ってるだけで騙される方が悪いんだよ」
「それで遊んでいるのは事実でしょう?」
 皇太子はスイの言い方が気に入った。こんなに自分が本性を見せてしまうのも計算違いでもあったが、それ以上に愉快だった。皮肉気に笑っても彼女は顔色一つ変えることもない。調査した内容以上にその性質が気に入った。
「君は何が不満なのさ?未来の国母、だよ?」
「そんなものを誰がいつ欲しいと言いましたか。私は静かに、平凡に一生を終えたいだけ」
「難しいんじゃない?君のその頭脳は非凡だもの」
「私の能力も知識も、私と私の大切な人達の為だけに使う予定ですから」
「僕もその大切な人達の中に入れてもらえないかな?」
「全身全霊で、無理です」
「あっは、あっさり振られちゃったねぇ」
 ちらりとイヴを見た。それはたまたま偶然だったのだが、一瞬皇太子は固まった。イヴは姉の腕に自分の腕を絡ませて微笑んでいた。
 しかしその微笑みを見て皇太子は何故か背筋を伸ばす。とてつもなく恐怖を感じさせる微笑みだった。イヴはその笑顔のままスイに声をかける。
「お姉さま、私、ちょっと退屈だから外へ行っても良い?」
「私は構わないけれど、殿下にお聞きしたほうが良いわよ」
「フロウ殿下、お庭を見せて頂いても良いですか?」
「………構わないよ」
 やった、とはしゃぐ姿は年相応の少女だ。今のあの一瞬はなんだったのか、と首を傾げるほどの変わり身だ。イヴが出て行く姿を眼で追ってから、スイに眼を向けた。
 たしかに十人並みの容姿。ここへ着てから彼女の笑顔を見ていないほどの無愛想ぶり。何故彼女を呼んだのか。面白そうだったからだ。スイに語った練兵場の件は本当ではある。しかしそれも吹き飛ぶぐらいの衝撃はスイの性格、につきる。無駄を嫌い、嘘偽りを許さない。これは意外に気に入ってしまったのだと気付く。
「で、本当に僕と結婚してくれないかな?」
「まだその話を引き摺る気?」
「そうだねぇ、意外に君のこと気に入っちゃったし」
「その程度の気持ちで奥方を決めるのは女性に対して失礼です」
「じゃあ、どの程度なら良いのさ?」
「程度の問題の前にその女性嫌いだか、女性不信だかを直すべきです」
「………僕女性は好きだよ?あの触り心地の良い身体は抱いていて飽きない」
「そういう好き嫌いではなく、心の底からは信じてはいないでしょう?」
 眼の覚める一言だった。皇太子は意外な言葉に呆気に取られた。大きく見開いた黒い瞳が綺麗だ、とぼんやりとスイは思う。目の前で皮肉でもなく、上辺でもなくふわりと皇太子が笑った。ちょっと困ったように、苦笑ぎみに。その顔は綺麗だ、とスイは思う。その笑顔は好きだと思った。
きっと寝不足と過度の緊張と心配で気を張り詰めて疲れていたのだと思う。そしてのんびりとした空間とふわふわとした柔らかい日差しと、皇太子の笑顔に気が緩んでしまったのだ。
スイは少しだけ、安心したように微笑んだ。それは心が温まるような笑顔だった。
「……………」
 皇太子は微かに目を見張り、衝動のままに身体を動かした。スイの頬に片手を添えて、屈み込む。ぼんやりとした緑の瞳が途轍もなく綺麗で、空いたほうの手で触る髪はさらさらと気持ち良い手触りで。
その顔の焦点が合わないほど近付いて、綺麗な瞳が見えなくなるのは惜しいと感じながらそっと自分の眼を閉じた。
触れたのはほんの一瞬。口紅も塗っていないのにスイの唇はほんのりと甘かった。
 その甘さに心惹かれ、もう一度触れたい、味わいたいと思う。もっと深く、そう思い、もう一度直ぐ傍にあったスイの唇を己のそれで塞ぐ。
――――塞ごうとした。
 柔らかな物に阻まれ、不機嫌そうに皇太子は薄目を開ける。スイは呆然としながらもなけなしの理性で二度目の口付けは自分の指先を挟むことで防いだ。
 だが、それさえも皇太子にはたいした障害でもなかった。薄く唇を開き、スイの指をぺろりと舐めた。あまりのことにスイはびくりと肩を揺らす。その反応が心地よくて、もう一度舐めた。今度はゆっくりと、丹念に。
スイが手を引こうとするが、それを阻むように髪から手を離し、優しく、しかし逃がさないように手を自分が包み込む。
スイを見つめれば途方にくれ、戸惑いながら皇太子を見つめる。自分だけを見つめるその新緑の瞳に優越感が胸に湧く。
微かに口角を持ち上げ、もう一度指を舐めて軽く歯を立てた。そしてその場所をもう一度丁寧に何度も舐めてから、ゆっくりと手を下ろす。それにつられてスイの手も下へと落ちる。
スイの唇を見つめ、思わず唇を舌で湿らせ、もう一度、と近付いた。後少し、そう考えた瞬間、首にひやりとした物が触れた。
少しだけ視線をずらすとそこには剣を持った騎士。その後ろには信じられないものを見たと言わんばかりのイヴ。スイも皇太子の視線の先をおそるおそる見る。そこには天の助けかのような人物がいた。
「クレイドル兄様」
 心底ほっとした様な直ぐ下の妹に、兄は安心させるような微笑を浮かべた。
「ちょっと、クレイドル。いい加減この物騒なもの仕舞ってくれないかな」
 これ、と指先で剣に触れ皇太子は邪魔された恨みを込めて睨み付けた。
しかしクレイドルからは凍てついた視線が送られて来るばかりで剣を引き寄せ様とはしない。男たちが無言の攻防をしている隙にイヴがスイに抱きつく。
ぎゅうっと抱きついて、自分の持っていたハンカチでせっせとスイの唇を丁寧に拭う。その後に皇太子が触っていた頬を熱心に拭いた。
姉の顔を左右に覗きこみ、他に触られたところは、と尋ねる。
「……髪と指」
 皇太子は律儀に答えるなと言おうとしたがクレイドルが睨む為、口を開け閉めして言葉が出てこない。
 イヴは髪にもハンカチを当て、帰ったら直ぐに髪を洗いますからね、と姉に強い口調で告げる。指は一本一本丁寧にハンカチで拭ってから。手洗いと消毒を言い聞かせた。
 そこまで聞いて皇太子も不貞腐れてくるものがあった。
「僕は汚い物か」
「残念ながらそれ以下です」
「クレイドル!」
 クレイドルは冷たい視線で反論を封じ込めた。
「我が家の至宝に手を出せば皇太子であろうと身体から首が離れますよ」
 本気の言葉に皇太子の背筋に冷たいものが流れた。
「フロウ殿下」
 イヴがスイに抱きついたままの姿で宣告した。
「今回の婚姻のお話は無かった事とさせて頂きます」
 にんまりと笑うその姿に、スイを独占するイヴに皇太子の嫉妬と怒りはふつふつと湧き上がった。
「僕は認めないよ」
「貴方が認めなくともこちらは構いません」
 いざとなれば皇太子をすげ替えれば良い、クレイドルは言い切った。
「…兄様、私情でそんな事はしてはいけません」
「お前は詰めが甘い。こういうのはどんどん増長してくる」
「待った。興味本位とかお遊びでスイに触れるのが駄目なだけでしょう?」
「当たり前だ!」
 敬語も吹っ飛んだよこの人、ぽつりと呟きながらもクレイドルを睨む。
「僕は本気だよ。そりゃあ最初は興味本位だったけれどね。今は違う。」
「何が違う?」
「うーん」
 考える振りをして皇太子はにやりと笑った。
「取り敢えずオトモダチからでどうでしょ?」
「お断りします!」
「クレイドルには聞いてないから」
 顔をスイに向けて、勝ち誇った笑顔で宣言した。
「お友達から始めよう。最終的には僕の元に落ちてくれれば僕はそれで構わない」
 負けじとスイは応える。
「期間を設けてもらわないと貴方の一人勝ちになるわ。それは勝負にならないわ」
「じゃあ、5年以内でどうかな?」
「受けて立つわ」
 皇太子は不敵に笑い、勝負を始めた。それは姫君の思惑からも、皇子の策略からもかけ離れたものだった。



皇太子が勝利とスイを手に入れるまでにそれから4年の歳月が必要であった。