伯爵家の思惑

 伯爵家へ帰る馬車の中、スイは困惑した表情で自分の隣と前を交互に見つめた。前方には腕を組み、苛々と指を上下に動かす兄。
「お兄様、あの、お仕事の方は……?」
「問題ない」
 いや、この人が馬車に乗り込もうとした瞬間可哀相な叫び声が聞こえていた。悲壮な顔をしていた騎士の人達が何人か視界に掠めてはいた。しかしこの人はそれを一切無視。兄の同僚たちに申し訳ないと心の中でそっと謝った。
「……イヴ」
 隣には妹。スイの腕をしっかりと抱きしめ不貞腐れていた。何故にこんなに不機嫌なのか、と首を傾げる。しかしイヴはスイの呼びかけには嬉しそうに答えた。
「なあに?お姉さま」
 きらきらと輝くような笑顔でイヴはスイに身体ごと向き合う。
「皇太子殿下に対してあれは、ちょっと、失礼じゃないかしら?」
「あんな人!あれでも易しい扱いだったわ!」
「そ、そう?」
 皇太子、の言葉に対する反応は凄まじい。可愛らしい妹の顔が怖いほどに歪んでいる。イヴが素敵とか格好良いとか言っていたのは今朝のことなのに。どう言う事だろうと疑問に思う。それが顔に出ていたらしく、イヴは憤然としながらも言い切った。
「あの人の噂を知っていたんです!女たらしで、見境が無いって!」
 スイはそうなのか、と話を聞いている。クレイドルはむっつりと押し黙りながらも内心では、イヴへと賞賛の拍手を送っていた。イヴの言葉は大部分を誇張していた。女性が好きではあるが、深い付き合いはしない。
 それが常であった。だからこそスイへの態度は眼に余るものを感じた。なんとなく厄介だ、と。あの人の本気がどの程度で、どこまでなのかが不明だ。それが不愉快であり、不気味だった。
 スイを見れば先程のやり取りに困惑している様子だった。表情の読めない妹の感情を読み取るのは難しい物だが、兄弟間であればそれ程の苦労は無い。きっと皇太子との勝負を後悔しているのだろう。婚姻自体を撥ね付ければ良かった。だがスイは伯爵家の安全を最優先したのだ。無意識のうちにも、スイは家を一番に考える。自分の気持ちや感情は置いてきぼりになったとしても気にすることも無い。
 そこまで考えてクレイドルは、はっと或る事に気づき必死に頭を振る。
(スイの気持ちって何だ!まるであいつにスイが心惹かれてるかのようだろ!)
「……お兄様?」
 心配そうにクレイドルの顔を覗きこむスイに笑ってやる。それに安心したようにスイは話し始めた。
「私、無謀なことをしてしまったのでしょうか」
「さあな。こればかりは成る様にしかならん。むしろ期間無制限で無くなったのが幸いだ」
 スイは切が良い様に、と五年と言う期限を設けた。その間を家族総出で皇太子へ妨害していけば良い。これには家長の同意が必要なのだが、経緯を知ればあの父親は静かに怒り狂うことだろう。権力にたいした執着も無い家族で良かった、と思うべきなのだろう。
「お父様に何と報告すべきか……」
「その点は問題ない。俺とイヴが説明する」
「もちろんよ姉さま!私たちに任せて!」
 喜々としてその役目を果たそうとする妹に二人は苦笑する。なんだか有ること無いこと吹き込みそうだと不安に思いながらも二人の好意に感謝する。
「……イヴ。貴女たしか、殿下に好意を寄せていたのではなかった?」
「あんなの出任せよ」
「で、出任せ?」
「お姉さまが心配だったんだもの」
 こうでもしないと連れて行ってはくれなかったでしょう、と言われスイは複雑な心境で頷いた。一人であの場に行っていたならば、きっと帰りの馬車には乗れなかった。そう確信していた。
 五年。たった五年の期限。それだけではあの人も何も出来はしないだろうし、途中で諦めてくれる可能性もある。それに望みを掛けるしかないのだ。こちらからは下手な手を出すことは出来ない。最悪、家の取り潰しになる可能性もある。
「親父殿はそんなこと気にもとめないぞ」
 心を読んだようにクレイドルはスイを諭す。冷徹な父親ならば、即刻皇太子を違う人間にするだろう。クレイドル自身は皇太子が誰になろうがどうでも良い。国さえ亡びなければ。
 馬車がゆっくりと止まる。屋敷に着いたのだ。外から扉が開く前にクレイドルが腰を上げて開く。そのまま降り立ちイヴに手を差し出す。その手を取ってイヴが馬車を降りる。そのまま屋敷に行くのかと思いきやクレイドルの反対側に陣取り振り返って手を差し出した。
 両方から手を差し出され、困惑気味にスイは両方の手を取った。馬車から降りれば父親が待ち構えていた。その様子に背筋を冷たいものが駆け下りる。
イヴはそんな様子のスイに問答無用で腕を引っ張り屋敷へと連れて行く。扉を開いた先に待ち構えていた老執事に大量の消毒を持ってくるように命じる。
(帰ったら消毒って、本気だったのね)
 がっくりと項垂れながらスイはイヴの言いなりになった。ちらりと馬車のほうを振り返りながら。
 憮然とした表情の父親にクレイドルは内心苦笑していた。気に入らなければ当主の権限で無視をすればよかったのに、スイの気持ちを優先させたのが不満だったのだ。何故お前が一緒に居るんだと言う視線にクレイドルは皇太子の行動を包み隠さず報告した。
 話を聞くごとに父親の顔色は悪くなっていく。始めは青ざめ、ついで怒りにより紅く染まる。対には怒りの余りどす黒い顔色になったことでクレイドルは話を打ち切った。
 今にも倒れかねない様子に、一先ずは居間に落ち着こうと説得する。そして馬車の御者にはさっさと馬車をしまわせた。そうしなければ王城に乗り込んだことだろう。
 居間にはイヴに髪の毛を布で拭かれているスイがいた。ソファに座り、困りきった顔をしていた。それを見て父親も少し落ち着きを取り戻す。
「それでクレイドル。皇太子がなんと言ってきた、と?」
「スイをどうしても正妻に迎える、と」
「………息の根を止めて来い」
 父親の口から出た言葉にスイは驚愕する。その後ろにいたイヴはそれが当然とばかりに頷く。クレイドルとしてもその意見には賛成だ。
「しかし父上、スイが彼とある賭けをしました」
「賭け?」
 こくりと頷きスイを見つめる。
「五年の間にスイが正妻になる、と返事をしなければ諦めるそうです」
「どこまで信用できる」
「概ね全て」
 あいつは嘘は付いた事は有りませんでした、と告げる。父親は腕を組み、深く息を吐き出す。
「スイがあれで良いと言うのならば反対はせん。やり方は気に食わんが」
「父上っ!」
「しかし、下手な小細工を弄しようというならば……潰すまでだ」
 やった、といわんばかりの喜色を全面に出し、クレイドルは父親に頷いてみせる。スイは困惑気味に父親と兄を見比べる。それを見とめた父親はスイの座るソファの傍まで寄っていく。スイの傍に立ち、そっと肩に手を乗せた。なるべくきつくならない様に言葉を捜しながら告げた。
「結婚は一生涯の問題だ。妥協も許さん。お前の望む相手で無いならどんな人間であろうと断ってかまわん」
「し、しかし父上!」
「家の事は気にするな。あんな輩に潰されるような我らではない」
 厳しい顔つきの父親。笑ったところを見たことも無かった。しかし今目の前の人物は不器用に優しく微笑んでいた。
 それはスイが初めて眼にした父親の優しい表情。自分を労わってくれるその顔付きにスイは眼の奥が熱くなった。微笑もうとして失敗し、へにゃりと泣き笑いの顔になる。
 疎まれていたわけではなかった。ただ、目の前にいるこの人は、自分の感情を表現するのが下手なだけで、ちゃんと案じてくれていたのだ。
 スイの笑顔に父親は安堵し、小さく首を縦に振ると居間を後にした。
「あの人も、不器用だな」
 苦笑しながらそう呟き、妹を見た。父親に優しい声を掛けてもらい喜んでいるスイを見て心に決めた。
 その決意を胸にクレイドルは五年間、大いに皇太子の恋路を邪魔したのである。