セナイダの黒い瞳

02

 トゥルンヴァルト建国史を読んでいた少女は、とうとうその分厚い書物を荒々しく閉じた。閉じた書物を親の敵かの様に睨みつける。睨みつけられた書物はそのままぞんざいに放り投げられた。手近な机に何とか乗った書物に対して苦々しげに口を開く。
「九割がた嘘じゃないの」
『まぁ、そんな物だよね。歴史なんて』
「こんなのが正規の歴史書だなんて聞いて呆れるわね」
『あっは。僕なんて作り話にも程があって笑っちゃうね』
 御伽噺の間違いじゃないの、とまで言い切る青年の言葉に少女は苦い顔をする。物言いた気な少女に青年はさらに愉快そうに声を掛けた。
『セナイダが怒ったって五百年も前の話なんだよ?』
「仕方ないからって諦めるの?」
『うーん。別にどうでも良いかな』
 少女はぐったりと疲れ、椅子からずるずるとだらしなく滑り落ち、背凭れに頭を預けて止まる。なんだってこんなにこいつはやる気が無いのかしら、と口に出さずに文句を垂れる。唇を突き出しまるであひるのようだ。いらついてがしがしと頭を掻き毟れば、やんわりと窘めの言葉が聞こえる。
『ほら、セナイダ。髪の毛が痛むよ。頭もぼさぼさで酷い事になってる』
 それにセナイダは心中でわかってるわよ、と返事をする。青年は心密かに首を傾げる。
心の中で「僕ってばどこでこの子の育て方間違っちゃったのかなぁ」と呟く。すると打てば響くような返事が返ってきた。
「初めから!産まれた時から!私が産まれる前から!」
『あのねぇ、僕は君の心の声にまで干渉していないんだからセナイダも僕の時は無視してくれなきゃ駄目でしょ』
「聞こえると返事したくなるでしょ!」
 セナイダの言葉にも一理あるので青年は沈黙で返事を返した。その返事はセナイダにも通じ、きちんと椅子に座り直す。それから心に干渉されないように高くて分厚い壁を作ってから机に立て肘をして、その掌に顎を乗せた。
 はふう、と気の抜けた溜め息を付きながらセナイダは自分の相手をしていた青年の事を思う。見た目はとびきりの美人。男の人にその言葉を使って良いのかは疑問ではあるが、中世的で綺麗なのだ。もちろん全ての身体の造りはれっきとした男性。優しく微笑むだけで女性は勝手に寄って来るだろう。そんな所は見たこと無いので想像でしかないが。
セナイダの美醜の判断は全てこの男が基準になってしまっている。その為、非常に面食いになってしまってはいたが、それだけではない。彼はとても綺麗な黒髪をしていた。女の子として完敗だ、と思わせるほどの艶々のきらきら。一般男性の様に短い髪は非常にもったいない。昔、そんなに綺麗なんだから伸ばせば良いのに、と告げてみた。彼は苦笑しながらそれはちょっと無理かなぁ、と言った。それ以来セナイダは言うつもりは無い。本人にやる気が無いのに言い続けても労力の無駄である。
そして彼には一番の問題があった。彼と話をする時には周囲をよく確認しなくてはいけない。平凡な顔立ちの自分と秀麗な青年が一緒に話せば、他の女の子たちから非難を浴びる。
―なんて事は、たぶん一生無いだろう。
有るとすれば、一人で二人分話しているいい年をした少女に対する痛い視線だ。痛いならまだ良い。可哀相な子と見られるのがちょっと辛い。両親にその癖、まだ直ってないのね、と溜め息を吐かれるのが一番打撃があった。
そう、青年は他の人には見えないのだ。セナイダ自身にも普段は見えてはいない。青年はセナイダが生まれた時から、最悪、セナイダという命が母親の胎内に宿った瞬間から共存している。最初は自分が友達欲しさに創った幻だと思っていた。
しかし夢の中でも出てきて、自己紹介を始め、これからも一生の付き合いになると思うから頑張ってね、と言ってきた。当時の自分になれるならきっと文句は言っていただろう。頑張ってとは何事だ。人事のように言うんじゃない、と。当時の純真無垢な自分を振り返る。